第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
王権と王の諮問機関としての議会装置との関係はどうだったのか。
王国評議会は、農民身分による独自の集会を含む4院制として発足、成立してきた点で独特のものだった。王権は貴族層だけでなく、聖職者層、都市の富裕商人層、自営農民層のいずれにも支持基盤を確保してきた。もっとも、反抗的な聖職者を教会改革で排除したのだが。
1527年のグスターフ1世による教会所領の没収と王領地への編合から、1680年のカール11世による神授王権の主張まで、王国評議会の各身分は王権を支持し続けた。
たしかに自営農民層の一部は、16世紀半ばの教会改革の時期にはときに武装して結集し、王権やストックホルムを幾度か脅かした。けれども、統治装置としての評議会が制度的に確立されてからは、農民代表は自発的な立法権能を欠いた議院のなかで一貫して受動的な身分団体として、王の要求に唯々諾々として従っていた〔cf. Anderson〕。というのは、王は伝統的な農民の権利を保護する立場を一貫して取り続けたからだ。地位に応じて王権政府(行政官や軍人として)の担い手として勤務した貴族たちは俸給による所得が増大し続けたので、貴族院も総じて王権に従順だった。
王政装置の担い手としては、王と貴族層は総じて強く同盟していたのだ。貴族層が王に対してときおり見せる抵抗は、王権そのものに対するものというよりも、個別政策の方向に関するもので、農民や都市住民と結びつくことなく、ほとんどつねに顧問会議の内部と周囲で展開された。
王と貴族との連合が王国を統治するという基本的な枠組みは変わらなかったが、王と有力貴族のあいだに対立がある場合の力関係は、それぞれの王の年齢や個性、政策によって変化した。カール9世のように成人してから王位を得て強い個性(信念)と影響力を行使する場合には、王は王国評議会に問題をもち出せば、通常、抵抗する大貴族に対抗して中下層貴族や都市代表、農民代表の支持を取り付けることができた。しかし、王位の継承者が幼若であったり、統治政策への関心が薄かったりすると、顧問会議=執政団を構成する有力貴族の集団が政権(宮廷)を壟断することもあった。
とはいえ、伝統的に王国域内の統治では王と貴族集団が権力を分有し合い拮抗し合うという仕組みが成立していたので、王や指導的貴族の個性や人格から総体的に自立した――力の平衡を維持回復する仕組みをともなった――統治組織の運営がおこなわれていた。
諸身分と評議会(身分代表装置)の王権への従順性ないし結集を基礎づけていた最も大きな要因の1つは、軍制だった。スウェーデンの軍制については、このあと独自に考察するが、王権は、軍をつうじて中下層貴族をその強固な支持基盤として組織し、さらに、独立した農民階級の存在によって当時のヨーロッパでは例外的に、徴募によって戦闘能力の高い軍を組織できたのだ。それは、1520年頃からのダーラナ地方でグスターフが下層騎士と農民からなる兵団を指揮して王国の独立闘争を開始し、それが各地の諸身分がグスターフの指導権のもとに統合されていったという経験に裏打ちされていた。
グスターフ・ヴァーサが1544年に創始した農村徴兵制 utskrievning は、王権への忠誠――軍務や納税での貢献――と引き換えに農民兵に割当地での耕作権や収穫権を与えることで、むしろ王領地での農民村落秩序を能動的に打ち立てることができ、しかも徴兵や軍務に対する農民の抵抗というリスクを抱え込むことがなかった。そして、それ以後、農民出身の歩兵団もまた、王権の周囲で諸階級の政治的凝集を組織化するための中核の1つとして機能するようになった。
だが、17世紀、本土域内にわずか90万の人口であったにもかかわらず、諸王権・君侯群が対抗し合うヨーロッパでスウェーデン王権が軍事的に華々しく立ち回るためには、以上のような政治的・イデオロギー的装備とともに、軍事的部門に動員される経済的・財政的資源が必要だったはずだ。
集権的な近代的王政が生育する不可欠の条件として、商品貨幣経済の成長を欠くことはできない。一見したところ、スウェーデンの森林に囲まれた「農村型社会」にはそのような条件はほとんどなかったかに見える。ところがスウェーデンには、少数だが飛びぬけてポテンシャルが――ヨーロッパ的規模で見ても――ひときわ高い《商品貨幣経済の飛び地》があった。多くの域内諸地方とは不釣合いに発展した、その独特な商品貨幣経済の中心地がもたらす利潤と物資が、ヴァーサ王権の統治権力と対外的膨張を財政的に支えていたのだ。
その1つめは、ベリスラーゲンをはじめとする鉱山の上質な鉄がもたらす富だった〔cf. Anderson〕。スウェーデン産の高品質の鉄は、兵器や農具、製造用具などの製品素材として、当時としては頭抜けた市場を確保していたことは言うまでもない。とりわけ銃、大砲、剣槍、船舶などのさまざまな兵器の原材料として、ヨーロッパの富裕な諸地方に上質な顧客を確保していた。ヨーロッパ中の王室、君侯貴族、富裕都市、商人団体などが、生存競争のために兵器=軍備のために巨額の代金を支払っていた。製鉄産業は17世紀中に5倍に成長し、全輸出品額の半分を占めた。
経済的ポテンシャルの2つめは銅産業だった。ことに17世紀はじめ、スウェーデンでの銅産業のブームは、16世紀末のカスティーリャでの銀通貨相場の崩壊――それをきっかけとしたヨーロッパ金融市場の混乱――と直結していた。1599年、エスパーニャ宮廷のレルマ公は平価切下げにともなう新銅貨ベリョンを鋳造させたが、それは、ヨーロッパ中でファルン鉱山産の銅への需要を飛躍的に高めたという。
そのさい、グスターフ・アドルフ2世は銅山に重い税を賦課し、王立の輸出会社を設立して、銅の供給量と出荷価格を厳格に規制しようとした。王権に巨額の戦争費用を用立てたネーデルラント商人は、王室資産としての鉱山を借款の担保に取っていたから、確実な利子収入と融資元本の回収を保証されていた。スウェーデン王室財政の潤沢はすなわちホラント商業資本の利潤増大と蓄積蓄積を帰結した。彼らはスウェーデン王室が経営する銅鉱業に最先端の技術を導入するように誘導し、鉱業の収益性を上げていった。もちろん、それは自分たちの懐を潤すことにつながるのだった。
エスパーニャ銅貨ベリョンの増鋳と使用量(流通量)の膨張は深刻なインフレイションをもたらし、1626年に造幣は停止されたが、銅への需要は増大し続け、スウェーデン鉱山と精銅業のヨーロッパ銅市場での独占状態は続いた。
というのは、銅もまた兵器生産に不可欠の高価な原料だったからだ。とりわけ青銅製の鋳造カノン砲は、鋳鉄製の大砲よりも爆発の衝撃や変形応力への耐久性が優れていたので、ヨーロッパじゅうの有力王室や諸都市はこぞって入手しようとした。1620-30年代には、宰相ウクセンシェーナの重商主義的政策のもとで、ワロン人商人ルイ・ド・イェール(ルイス・デ・ヘール)が多数のベルギー人技師を招聘してファルン銅山の開発を進めるとともに、ウプランドに鉄鉱業・製鉄・金属加工業を興した。
鉄と銅は輸出用商品として王室に莫大な貨幣をもたらしたが、兵器生産に不可欠な原料(戦略的資源)だったから、スウェーデン自体の軍備増強にとっても不可欠かつ決定的な資源だった。スウェーデンはヨーロッパで最大の戦略的な基幹産業=兵器産業の1つを域内に保有することになった。その中心地はイェーテボリで、この都市はバルト海から北海への出口にあって、ズント海峡――デンマーク王権の威圧――を経由しないでヨーロッパ経済の中心地ネーデルラントへ向けて出航することができた。
こうして、鉱山と金属精製産業は、バルト海とその周域でのスウェーデン王権の軍事的膨張のために財政的基盤と軍需物資の両方を提供した。そして、軍事的成功がもたらした征服地プロイセンでの課税やバルト海の通航税、ドイツ戦線での略奪品、さらにフランスからの財政支援が三十年戦争で支出された巨額の資金をまかなった。
とはいえ、ハンザよりもはるかに巨大な経済的覇権を行使するネーデルラント諸都市のスウェーデン経済への支配=影響力はかなりものだった。そこで、次にこの従属構造について瞥見してみよう。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成