第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
スウェーデン王権は、王国内の鉱工業製品の貿易や産業貿易の育成事業においてネーデルラントやブラバントの商人層と密接な関係をもっていた。そして、彼らはスウェーデン王国内で巨大な規模の鉱工業を経営していた。その製品の多くは、直接ネーデルラント人の貿易会社に引き渡されていた。スウェーデンのきわめて小規模な経済には不似合いに巨額の資金循環が存在していたのだ。そのためスウェーデンでは、この時期にヨーロッパで最も先進的な金融制度を域内に移植・創出することができた。それが、王室財政の資金管理を専門に行う金融商人団体=銀行の設立の実験だった。
17世紀半ばに設立されたストックホルム銀行 Stockholms Banco は、通俗的には創立者の名前をつけてパルムストルッフ銀行
Palmstruch Bank とも呼ばれた。ヨーハン・パルムストルッフは、もともとは教皇庁の信任を受けて、その資金をヨーロッパ中の金融市場に投入する業務を受託したネーデルラント商人の1人だった。
1647年、ヨーハンはストックホルムに着任したのち、御用商人として宮廷に接近して王国通商省の理事となり、50年代にはカール10世グスターフに銀行(融資)業務を行う専門機関の開設を提案した。王室による設立の特許状の付与にあたって、彼の提案のうち、銀行の利潤の半分が王室に払い込まれるという運営方式が導入された。王室御用金融機関としての業務には、当然、銀行利潤の王室払込みの将来見込みを担保として、王室への貸付けも含まれていた。
もとより、王室の預託金が大部分を占めたが、有力商人や貴族からの預託金も受け付けていた。というのは、外国貿易を含む商業は王権から特許を与えられた事業だったので、有力商人の域内ならびにヨーロッパ的規模での資金運用は王室財政と密接な結びつきがあったからで、貴族は域外――フィンランドやエストニアや北ドイツなど――の領地から大きな所得を得ていて、遠距離送金や資金運用(鉱工業や貿易業への投資)のために銀行を利用する必要があったからだ。
1657年にストックホルム銀行が設立されると、パルムストルッフは総支配人となった。この銀行自体は、アムステルダムやハンブルクで政府の資金を供託預金として管理する業務をおこなう銀行を模倣したものにすぎなかったが、彼はそれに2つの機能を付け加えた。⇒アムステルダム為替銀行
その1つは預金口座に振り込まれた王室の資金を貸付けや(投資)に回す機能だったが、大きな問題があった。というのは、政府の資金は戦争や政策にともなう政府の資金需要に応じて出し入れされるため、通常、預金供託(預入れの)期間は短かったが、貸付期間=回収期間は長期になったからだ。つまり、王室も含めた預金者の資金需要=引出しに必要な貨幣や貴金属が銀行に準備されていないことも多かった。ゆえに預金者は、取引きにともなう口座からの資金引出しを即座・容易にできなかった。
2つめの機能は、1つめの機能の限界を補うために、銀行の信用状としての紙券 Kreditivsedlar の発行だったが、それはヨーロッパで最初の銀行券=兌換紙幣 bills
of bank / banknotes の発行だった。この紙券は、いつでも好きなときに必要な鋳貨と交換できるものとされた。銀行としては、将来の回収=貨幣準備を見越して紙券の発行ができるようになるはずだった。
しかし、当時の状況では、長期にわたって複雑多岐にわたる資金循環を管理する能力は期待する方が無理だった。そこで、経営は最初うまくいくように見えたたが、銀行が準備した貨幣(貴金属)備蓄額を超えた巨額の貸付け=紙券発行をおこなう一方で、紙券の発行に見合った準備貨幣や担保を確保できなかったため、銀行は貨幣準備不足で1668年破産に追い込まれた。
パルムストルッフはずさんな経営の責任を追及され、貴族の称号と金融業の特権を剥奪され、投獄された。銀行の資産と業務そのものは、同年中に、王立銀行
Riksens Ständers Bank に改組・譲渡され、王国評議会の直接の統制を受けて経営されることになった。この経験は、名誉革命後のイングランド銀行の設立と庶民院による金融財政管理の仕組みの創設にあたって先進事例を提供した。
それからおよそ200年後、1866年に新たな王国議会 Riksdag が設立されたときに中央銀行としての位置づけを与えられ、銀行の名称はスウェーデン王国(国立)銀行 Sveriges Riksbank となる。
それにしても、スウェーデン王権は、富裕商人と貴族と密接に結びつきながら域内に小規模の金融市場を育成し、金融循環を銀行を中核として組織化して、域内産の鉄・銅製品の輸出やバルト海沿岸の支配地からの収入によって得た資金を貿易や産業への投資に回す経路をつくりだしていた。してみれば、王権は恒常的な財政危機に見舞われてはいたが、この時点では、ほかのヨーロッパ諸王権に比べてはるかにましな財政事情にあったと言うべきだろう。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成