第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
これまでのスウェーデン王国の統治の伝統(慣行)では、王は王政の運営にあたって大貴族からなる顧問会議を召集して、政治的重要案件に関する検討や準備をおこなっていた。つまり、顧問会議の召集は、貴族連合の中核となる有力貴族からの同意の取り付けのためだったが、それは有力貴族集団による王権の掣肘の手段にもなっていた。だが、従来の顧問会議はしだいに実際の重要な政策決定からは排除されていった。
それに代わって、王直属の貴族団からなる枢密会議 Riksrådet が臨時に組織された。この時代には、枢密会議は常設の制度ではなく、王が政策運営の都合に合わせて任意ないし臨時に召集する会議で、そのときたまたま王の近辺にいる側近高官たちを集めた集団にすぎなかった。このような政策運営を支える権力基盤は、王国評議会(の貴族身分集会)となっていった。
それゆえまた、グスターフ・ヴァーサは、自らの王への選出過程のなかで骨格がつくられていた4身分制――貴族、聖職者、都市代表、自営農民代表――の王国評議会を正規の統治制度として確立した。1520~1540年代、評議会は、王政の政策に対して臣民諸身分の同意を取りつけながら、教会改革をめぐる政策策定や立法をおこなうために、何度も召集された。そして1544年の評議会で、王位の継承が有力貴族家門が主導する選挙で決められるのではなく、ヴァーサ家の世襲となるものと決定された。
王と評議会の決定によって、教会財産はすべて王室に属することになった。法制度上、大半の教会所領は王領地に編合された。グスターフは貴族層に対して王権への全面的臣従を求め、それと引き換えに、すでに見たような仕方で没収した教会所領を貴族層に分封した。しかし、この教会改革
Reformation は、主に財政問題(教会財産の扱い)と統治装置としての教会組織の再編に限られていた。
形の上では、教義は旧来からのローマカトリック教義の内容がほとんどそのまま維持され、トゥリエント会議以前のままだった。しかしながら、スウェーデン教会が大量に刊行した聖書(聖典)は、ギリシア語やヘブライ語からの直訳ではなく、北ドイツのルター派による福音書から転訳された内容だった。それゆえ、日常的な礼拝や聖書講読では、ルター派福音主義の解釈が少しずつ幅を利かせ始めたともいえる。
グスターフの専制主義と集権化への傾向によって、スウェーデンの宗教改革・教会改革は独特の様相を呈することになった。1531年には、ラウレンティウス・ペートゥリがスウェーデン教会においてプロテスタント派としては最初の大司教に就任した。しかし、教会役員の多くは王の教会政策に根強い抵抗を続けた。これに対して1539年と40年の王令は、教会組織における司教の権力を大幅に削減し、権威なしの名目上の地位にすぎないものとした。司教位の設置・任命と廃止は王の意のままになった。ルター派の高位指導者たちは、各地の司教職にルター派聖職者を任命し教会組織の運営や教義の変革を進めたという。
ついに1543年以降は、聖堂参事会における見せかけの選挙すら経ることなく各地の教会役員が指名され、この聖職者は教区主事 Ordinariat または教区監督 Superintendent と呼ばれた。44年には王国評議会で、信仰の内容についての定式化もなしに伝統的な宗教との断絶が宣言された。このような不整合が生じた理由を次に見てみよう。
このように、スウェーデンにおける宗教改革は、王と王権派の貴族連合によって、王権国家装置の創出に役立てるために、政治的な理由から、同時に経済的・財政的な理由から、強行された運動だった。グスターフは、スウェーデン住民の大多数の信仰や宗教的心性とは反対に、統治秩序の組み換えとして教会改革を強行したのだ。
ところが、スウェーデンでは、とりわけ農村部で16世紀初頭には、住民の圧倒的多数は依然として旧教会に帰依しているばかりか、ルター派などに対しては反プロテスタントの動きをきわめて暴力的に推し進めてきた。というのも、ローマ教会は民衆にキリスト教を浸透させるために、歳時の行事として土着の信仰や伝統行事を教会活動に取り込んできからだった。これに対して、プロテスタント派の理想主義はかなりキリスト教本来の戒律や儀式を厳格に守ろうとする態度だった――それゆえ、農民たちの伝統的祭事慣習を迷信や迷妄、異教徒的なものとして排除しがちだった――ことが、民衆にとっては生活習慣の変更の強要または既得権の圧迫と感じられたのかもしれない。
というのは、王権は教会改革と同時に農民への課税制度の再編を強行したからだった。従来の農民所得や土地資産についての評価による課税から、担税能力=支払い能力に応じた査定にもとづく課税に組み換えられたのだ。経営才覚に長けた自営農民(農地保有者)ほど、重く課税されることになった。
それゆえ、王権の動きは、この時代にヨーロッパのほかの地域では見られないほどに政治的結集力と影響力、戦闘性をもっているスウェーデンの農村下級貴族と自営農民層を疎外するものだった。
彼らはこれまで外国出身の王や支配者に対して防衛的な闘争を挑んで、独立(つまりは既得の権利や生活の安定)を維持または回復しようとしてきた。彼らは政治的には従属的な階級だったが、王国評議会でも大きな発言力をもち、スウェーデン統治体制の力強い基盤の1つだった。そして、なによりも――貴族層と王権が対立した場合には――王権の主要な支持基盤となってきた。自営農民層はヴァ―サ王権の生来からの同盟勢力であって、その支援や支持なしにはヴァーサ王朝のスウェーデン統治は成り立ちようがなかった。それは、グスターフを王座に押し上げたその力が、王権が農民層の利害に敵対的な態度をとれば、いつでも恐るべき王権の対抗勢力になりうる――王室の権威の基盤を掘り崩してしまう――ということを意味していた。
したがって、王権は政策上、農民層や地方下級貴族層の利害にも深く配慮しながら、他方で彼らの対抗勢力――農民層と王が対立したさいには王の同盟者――となりうる有力貴族層の利害にも配慮しなけれなばらなくなった。
このような事情が背景にあって、教会改革期におけるスウェーデン王政は実に奇妙な構造をもっていた。とくに王権による教会の財産と収入の収奪は農民層を憤激させた。ルター主義の導入に対しては、農民集団は武装蜂起して、ストックホルムに迫り市を破壊すると威嚇したこともあった。グスターフは教会役員と教会組織の上層を王権に服属させることはできたが、多数の信者=民衆のカトリック的心性と行動様式を組み換えることはできなかった。というよりも、教義の内容や教会の活動形態には深く手を入れられなかった。
それゆえ、グスターフの死後、王政統治構造のなかで王国評議会は有力な装置として機能していて、そのなかでは農村貴族と自営農民層の身分集会はきわめて活発だったから、教会活動の実質的内容におけるカトリシズム(伝統)の復権は避けられなかった。
それでも、王権が大胆な教会組織と財政の変革を持続したのは、この変革をつうじて、王室財政の確立をなしとげ、王権を支える最も決定的な勢力=貴族層との強固な同盟関係を築くことができたからだった。
とはいえ、王権は1524年から44年までに6回もの大規模な農民蜂起に直面しなければならなかった。これらの反乱にさいしては、しだいに重くなっていく財政的負担=課税が農民層の悲惨と不満を引き起こしたことが直接の原因ではあったが、彼らの生活慣習と結びついていた宗教的な事情もまた重要な要因をなしていた。とりわけ目立つのは、1527年のダーラナの農民蜂起と43~44年のスモーランド農民反乱で、これらは王権と貴族の同盟に裏打ちされた軍事力によってようやく鎮圧されたという。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成