第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
以上に見たような統治機構と軍事組織を土台として、スウェーデン王権はバルト海一帯に軍事的支配地を拡大し、独特の「帝国政策」を打ち立て運営するようになっていった。この帝国政策がスウェーデン王権を三十年戦争に引き込んでいく経過を考察する。
1570年代以来、スウェーデン、ポーランド、ロシアはバルト海東部沿岸諸地方をめぐって断続的に争っていた。1600年、スウェーデンはエストニアを占領し、領地を回復した。とはいえ、17世紀初頭にスウェーデンがリヴォニアでの足場を築く努力は、リトゥアニア大公国諸侯の抵抗によって妨害された。
当時、リトゥアニア大公国――現代のウクライナからベラルーシにおよぶ地帯――は、ポーランドと同様に分立的な地方領主たちによって分断され、名目上、ポーランド王国に併合され連合王国を形成していた。その北部では、有力領主ヤン・チョドキエヴィッチが総督
Hauptmann (地方軍閥の頭目)として軍事的にこの地を支配していた。スウェーデン王カール9世は1608年、モスクワ大公ヴァシーリ4世と共通の敵ポーランド王に対抗して同盟した。
このとき、ロシアの帝位=大公位の継承は紛糾していて、ヴァシーリはスウェーデン王権と同盟するしかなかった。しかし、1611年、ヴァシーリは反乱派諸侯・臣民によって廃位され、ロシア人の帝国は解体の淵に立たされた。
それまで、スウェーデンのロシア政策は、モスクワ大公を支援してポーランド諸侯やデンマーク王権に対抗させようとするものだったが、弱体化したロシアはヨーロッパの勢力争いの列から脱落しかけていた。そこでカールは政策を転換し、1611年にはロシア領フィンランドに侵攻してその一部を征圧し、さらに内陸部に攻め込んで大都市ノヴゴロドを占領した。そのさいカールは、次男フィリップをノヴゴロドの救援者として派遣し、フィリップがスラブの大公位を継承すべきものと主張したため、ロシア勢力を敵に回すことになった。こうして、対ロシア戦争(1613~17年)が起きた。
さらにカールは、傲慢にもスカンディナヴィア北部のラップランドとノルトランドを征服してその地の王を僭称した。その領土と臣民は、それまでデンマーク王に属領として服属すものとされてきたものだった。当然のことに、スウェーデン王権はデンマークとの新たな戦争に突入した。これがカルマル戦争(1611~13年)で、他方でロシアとの対立も並行していたから、戦線はバルト海の東部からほぼ北欧全域に拡大し、消耗なわりに成果の見込めない戦争にはまり込んでしまった。
1611年に王位を継承したグスターフ・アドルフ(2世)は、1613年、先王カール9世がデンマークとのあいだで引き起こしていた戦争を高い補償金を支払って講和にもち込んだ。これによって、軍事行動をバルト海の対岸に集中することができた。このときロシアは混乱期にあって、バルト海方面で勢力を失っていたが、内陸部ではミハイル・ロマノフがその家門の周囲に新たな王朝権力を形成しつつあった。
グスターフは、新王朝によって統合されつつあるロシアを分断するのは不可能と判断した。他方、ロシアもスウェーデンの攻勢を抑えるには、領地の割譲によって取引するしかないと判断した。1617年、ロシアの新皇帝はスウェーデンとストルボヴァで講和を結び、スウェーデンにイングリアとカレリアを割譲し、2万ルーブルの賠償金を支払った。けれどもロマノフ王権は、エストニアとリヴォニアへの主権を再三主張した。これに対して、スウェーデンは都市ノヴゴロドを再建してロシアに返還し、ロマノフをツァーと承認した。
こうしてロシアとの敵対を決着させて、スウェーデン王権はフィンランド湾一帯の支配権を獲得した。
4年後には、ポーランド=リトゥアニア連合王国との戦争(1621~29年)でリーガを獲得した。この戦争はバルト海沿岸部の支配をめぐる戦争だったが、ポーランド王(ヴァーサ家)ジークムントにしてみれば、グスターフのスウェーデン王位保有は承服できなかったし、双方にとって宗教をめぐる戦争でもあった。
グスターフは、戦線をバルト海沿岸沿いに南西部に拡大しようとして軍の主力を移したことから、1626年初頭、スウェーデン領リヴォニアはポーランド勢力によって占領された。グスターフは肥沃で防御しやすいヴィスワ河口の三角州を征服し、永続的な支配地にしようとしていたため、主戦場はポーランド王国領プロイセン(オストプロイセン)に移った。
この戦争は1629年のアルトマルク条約で講和にいたった。条約によって、スウェーデンはリヴォニアの領有を回復し、ヴィスワ河口のエルビング、西ではブラニエヴォ、プロイセン公領のピラウとメメルを保有することになった。
これには、ピラウ、メメル、ダンツィヒ、ラビアウ、ヴィンダウなどの港湾諸都市での入港税・通航税の課税権がともなっていた。入港税や通航税は莫大な富を生み、1629年だけで王室は50万リーヒススダラー(ライヒスターラー)の収入を得た。それは、同年、王国評議会で承認された援助金=税の総額とほぼ同じだった。しかもスウェーデンは、オーボからカレリアを経てペテルブルク、さらにナルヴァからリーガを経てエルビングまでの地帯を支配することになり、バルト海の大半の海域でスウェーデンは軍事的優位を確保し、バルト海の中部および東部における大半の主要な貿易拠点を軍事的に押さえることになった。
このような文脈において、スウェーデン王権のバルト海沿岸の征服活動は、海運航路と貿易の拠点をめぐる戦争であって、経済的・財政的な理由が背後にはたらいていたと見ることができる。そして、この一帯で通商覇権を確立しつつあるネーデルラント諸都市(商人団体)の非公式の支援がなければ、推進できそうもない活動でもあった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成