第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
ところが、1657年6月、北ドイツのスウェーデン領を奪い取ろうとするデンマーク王権の宣戦布告を受けて、カールは主要な攻撃対象をデンマークに転じた。デンマーク王は神聖ローマ皇帝、ロシア、ポーランドとスウェーデンに対抗する同盟を結んでいた。カールはデンマーク王国がユーランの南方からの攻撃にきわめて脆いのを知りつくしていたので、騎兵団の突進でポンメルンのビュドゴスチから突入して、ホルシュタイン領との境界に迫った。デンマーク軍は蹴散らされて、6月中にスウェーデンはブレーメン公領を回復した。
初秋にはカールの大軍がユーランに攻め込み北上した。しかし、王権の中枢が位置する島嶼部への進攻は、フレゼリシア城塞のデンマーク兵が頑強な抵抗を続けて10月までスウェーデン軍を湾岸部に釘付けにしたため、食い止められた。同時にデンマーク艦隊が執拗な迎撃戦を挑み、スウェーデン艦隊の島嶼部への進撃を断念させた。
ところでこの頃、王室財政の危機のなかで、スウェーデンの軍事力はかなり偏っていた。陸上軍の整備に重点を置いた政策――大陸の陸上軍の維持費はフランス王権からの援助金でまかなった――のせいか、というよりも域外に派遣する陸上軍以外には手が回らなかったため、スウェーデン艦隊は装備も貧弱で弱体化していた。バルト海洋上で優位に立っていたのは、ネーデルラント艦隊とデンマーク艦隊――属州ノルウェイ王国の艦隊と連合していた――だった。ゆえに、艦船による兵站補給体制を構築できないスウェーデンの軍事的優位の基盤は脆かったといえる。
デンマークとの戦線を維持しているさなか、デンマーク王権とポーランド領リトゥアニアが攻守同盟を結んでスウェーデンに対抗したため、カールの立場は危機に瀕した。プロイセンからポンメルンにかけてスウェーデン王軍の展開に侵略欲と危機感を深めたブランデンブルク選帝侯は、スウェーデンに敵対する側の同盟に乗り換えた。ここで、カールはいったん、イングランド王国護国卿オリヴァー・クロムウェルとフランス王国宰相マザラン枢機卿の停戦調停を受け入れざるをえなかった。
ところが、翌1658年にかけて冬季の寒波は厳しく、ユーランの陣地からフューネン島、シェーラン島のあいだの海峡が結氷したため、スウェーデン王軍の渡渉作戦が可能になった。カールはポンメルンから軍隊を迅速に引き上げ、北海とバルト海を結ぶ3つの海峡一帯を征圧し、コペンハーゲンの近傍まで侵攻してデンマーク王に講和を迫った。スウェーデン軍の包囲によってコペンハーゲンを脅かされたデンマークは、スウェーデン王権と講和した(1658年2月のトールシュトルプ条約とレーシルデ条約)。同年6月にはゴットルプがスウェーデンに割譲された。
海峡地帯での戦勝は、このほかスウェーデンにスカンディナヴィア半島南端のスコーネ地方、ブレーキンゲ、ハーランドをもたらした。こうして、デンマーク王権をスウェーデン包囲網の戦列から蹴落とした。とはいえ、スコーネ地方の農民たちはその後もスウェーデン王権の統治に根強く抵抗し続けたという。
7月にはスウェーデン軍がふたたびシェーラン島に上陸してコペンハーゲンを包囲したが、フリードリヒ3世の軍は10月までもちこたえた。ところがそのとき、この地域での通商特権を脅かされたネーデルラントの艦隊がスウェーデンに敵対することになった。
バルト海と北海を結ぶ海峡地帯のスウェーデン王権による征圧は、ネーデルラントの執拗な反撃と介入を引き起こした。ヨーロッパの経済的覇権を手にしたユトレヒト同盟は、バルト海域にいたる海峡一帯を支配して自由航行を妨げるような軍事的脅威の出現を許すことはできなかったのだ。10月には、艦艇の性能と装備にまさるネーデルラント艦隊がズント海峡の海戦でスウェーデン艦隊を撃破し、背後からスウェーデン軍を衝いてコペンハーゲンを解放した。翌年には、デンマーク領の諸島をすべてスウェーデンの占領から奪還した。
東方ではロシア皇帝軍がスウェーデン軍に対峙し、南方、西方ではネーデルラントに加えブランデンブルク家とポーランド諸侯もスウェーデン包囲網に参加したため、カールはポーランドとポンメルンから撤収せざるをえなくなった。1660年にスコーネ戦線で突然カールが病死し、ポーランド遠征と対デンマーク紛争(北方戦争の第1局面)は終結した。
1660年5月のオリヴァの講和では、フランス王権が仲介して、スウェーデン王権にポンメルンとポーランド王国内の領地を放棄させ、ポーランドとブランデンブルク王権との紛争に終止符を打った。この講和協定によって、スウェーデンのリヴォニア領に対する支配とブランデンブルク家領のオストプロイセンに対する主権を確定し、ポーランド王のスウェーデン王位に対する請求権を否定した。
他方でオリヴァ条約は、デンマーク王権に対して、スウェーデンに敵対する主要な同盟(ポーランド王、ブランデンブルク家、神聖ローマ皇帝との同盟)の解消とスウェーデンとの直接の講和交渉の再開を求めた。両王権の和平は、直後のコペンハーゲン条約で調停された。デンマークはスウェーデンにスコーネ地方の3州を引き渡すとともに、ホルシュタイン・ゴットルプ公領のデンマーク王権からの独立(つまり公とスウェーデン王権との同盟)を認め、引き換えに、2年前にロスキレ(レーシルデ)条約によってスウェーデンに割譲したトゥロントハイムとボルンホルム島を受け取った。
ロシアとの戦争は1661年のカルディスの講和で最終的に決着し、同年のストルボヴァの協定により、ツァーはスウェーデンにバルト海沿岸の諸州、イングリア、エストニア、ケクスホルムを引き渡した。
こうして、スウェーデン王権は深刻な財政危機を抱えながら、この戦争からヨーロッパの有力国家としての地位を獲得して抜け出した。その結果、外観上、スウェーデン王国は、バルト海を連結回路として沿岸一帯を支配する「帝国経営」をおこなうことになった。その中心にはストックホルムが位置し、対岸のリーガは副都として位置づけられた。抱える人口は250万におよんだ。しかしこの「帝国」は、それぞれ本来、強い自立性をもつ領主たちや諸都市、諸地方からなる分裂しやすい地帯であって、たまたま軍事的優位を確保した単一の王権に暫定的に臣従することになっただけで、不安定な支配圏域をなしていた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成