第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
ところで、このようにして統治装置をつくりあげていくヴァーサ王朝にとって、とくにその財政運営と政治的・軍事的環境に関して幸運だったのは、16世紀前半、バルト海およびヨーロッパ世界貿易における権力関係が構造転換の時期にさしかかっていたことだった。変革を阻害ないし阻止しようとする力をおよぼしそうな勢力の衰退が見られたのだ。
その構造転換の1つは、デンマーク王国域内でも、統治秩序の混乱と王位継承紛争がこれまたやはり教会改革と結びついて展開していたことだった。もう1つは、ハンザの相対的地位の衰退――バルト海での地域的通商覇権の喪失――、要するにリューベックの軍事的・経済的・財政的能力の後退というタイミングと並行したということだった。
スウェーデンやノルウェイにカルマル同盟の受容を強要していたデンマーク王権ではあったが、域内の権力構造や諸身分・階級関係はスウェーデンと大差がなかった。むしろ、域内にハンザなどの域外商業資本の貿易拠点や有力商品となる鉱産物(その生産施設)がない分、デンマークは長期的に見ると、スウェーデンよりも立場が悪かったといえる。
デンマークでは15世紀半ばにオルデンブルク家の王朝が始まった。しかし、この家系の諸王は王室の外面的権威ばかりを高揚させようとする政策を追求し続けたようだ。初代のクリスチャン1世(在位1448-81年)は王宮での派手な儀式やローマ教皇訪問――これには威儀を正した家臣団の随行や教皇への高価な献上品がともなっていた――などをおこなって、王室財政を著しく悪化させた。次王ハンス(在位1481-1513年)はスウェーデンへの行軍をおこなってそのカルマル同盟への復帰を達成し、リューベックに圧力をかけバルト海に影響力を広げるため強力な艦隊を創設した。
オルデンブルク家門は北ドイツで最有力の名門で、その一族はホルシュタイン公、シュレスヴィヒ公、ポンメルン公、プロイセン公を輩出していた。それゆえ、デンマークの諸王は名門意識が強すぎた――王族家門内部での権威誇示の競争があったから――ともいえる。
だが、域内ではユーランの地方の自立的な武装農民の反乱に手を焼いた。武装農民が王軍に優越する状況になると、王の権威の後退はスウェーデンでの反乱を勢いづかせた。ハンスから王位を継いだクリスチャン2世(在位1513-23年)は15世紀末にスウェーデンの反乱を弾圧し、遠征をおこなったが、反乱の鎮圧には結局成功しなかった。しかも、相次ぐ軍事活動によって財政は逼迫したため、貴族連合の支持を失い、彼らの反乱によって王位を追われてしまった。貴族連合は、クリスチャンの叔父でホルシュタイン公のフリードリヒを王位につけた(デンマーク王としてフレデリク1世:在位1523-33年)。
これによって、デンマーク王国、ノルウェイ王国、ホルシュタイン公領、シュレスヴィヒ公領が、同じ君主によって統治される同君連合王国となった。
ところが、それぞれの王国・公国のあいだにも、また貴族層の内部でも深刻な分裂と対立があり、それには宗派紛争が絡んでいた。シェーランや中央宮廷の有力貴族はローマカトリック派でロスキル大司教の後押しを受けて反プロテスタント運動に絡んでいた。これに対して、北ドイツに近いユーランやシュレスヴィヒ、ホルシュタイン地方の貴族層はプロテスタントに与していた。この対立は、1533年のフリードリヒの死後に王位継承をめぐって吹き出た。
というのも、世子クリスチャン(3世)は熱心なルター派プロテスタントでシュレスヴィヒ領でのルター派の改革運動を後押ししていたので、シェーラン・コペンハーゲン宮廷の有力貴族が彼の王位継承に反対したためだった。翌1534年には宗派対立からマルメでは反乱が生じ、ホルシュタイン領でもオルデンブルク伯の反乱が起きた。そのうえ、都市や貴族層の紛争のなかにリューベックが割り込み、クリスチャン2世の復位を旗印にして艦隊を派遣し、コペンハーゲンに攻め寄せて攻囲してしまった。沿岸の城砦や都市は次つぎにリューベク側に攻略されていった。
今日のスウェーデンの南端スコーネ地方はデンマーク領で、そこではローマカトリック教会が優越していた。ところが、都市部にはルター派福音主義が浸透していた。1534年、ルンド司教は有力都市マルメ政庁に対してルター派の追放を命じたが、住民多数派はこの命令に抵抗して蜂起しマルメ城砦を占拠した。混乱と不穏はデンマーク王国各地に広がった。マルメ市長はリューベックと同盟して、王族のオルデンブルク伯クリストファーを動かしホルシュタイン領に攻め込ませた。
リューベックの支援を受けたクリストファーのねらいは、王位やユーランあるいはホルシュタインの領地ではなく、フュン島、ランゲラン島、ローラン島の豊かな穀倉地帯の所領の獲得だったらしい。
リューベックがホルシュタインならびにコペンハーゲンの宮廷を攻撃しようとしたのは、両宮廷の顧問会議が勢力に衰えが見え始めたリューベック=ハンザを見限って、ネーデルラント諸都市と同盟を結ぼうとしていたからだ。この文脈では、宗派対立よりも、経済的=通商的利害の絡みの方が紛争の主要な原因をなしていたともいえる。
だが、オルデンブルク伯の反乱は、ユーランやフュン島、ローラン島の領主貴族たちをクリスチャン派に押しやることになった。
しかしクリスチャン3世(在位1534-59年)は、力に陰りの見えてきたリューベックの通商権力からこれまた自立しようとするスウェーデン王権と同盟して、どうにか戦線をもちこたえさせて1536年にリューベックを駆逐した。その結果、37年の講和協定によってスウェーデンはリューベックによる通商的支配から離脱でき(次項で考察)、他方、デンマーク域内では王とプロテスタント派貴族連合がカトリック派の貴族を封じ込めることができた。
クリスチャン3世もまた、王権の強化のために教会組織の再編と教会財産の収奪に乗り出した。その政策は、スウェーデンと似たもので、教会財産・所領の王権派貴族への分配によって、貴族連合の支持を取り付け、王権を強化した。なかでも豊かな大司教領・司教領の王領地への編合は王室財政収入を飛躍的に増大させたという。
クリスチャンは、王位継承よりも前にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン領で推進していた教会組織のルター派福音主義への転換の手法をユーランやシェーランにもち込んだ。そして、聖典・聖書をラテン語やギリシア語から在地言語をもとにしたデンマーク語に翻訳刊行させ、礼拝での購読や祈祷をデンマーク語でおこなわせるようにしていった。そして、旧来の司教区の教会行政を司教に代えて教区監督
Superintendent に担わせた。
とはいえ、教義内容については、従来通りのものだった。これは、やはり在地農民や下級領主の抵抗や反乱を回避するためだったようだ。 また、修道院に在籍する修道僧や修道女たちの勤務の継続を許容し、彼らが死去したのちに、聖界碌として給付されていた所領や圃場を王室資産に組み込んでいった。これも、従来の地代収取の慣例を維持して農村秩序の動揺を抑えるためだったようだ。
クリスチャンは、顧問会議や貴族評議会の支持を背景にして、ノルウェイの王国として独立を否認し属州として併合した。そして、この地域の教会にもルター派優位を押し付けようとした。だが、在地下級領主や農民諸階級の抵抗が強く、改革はかなり遅い進み方だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成