第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
14世紀半ばの危機のなかでスウェーデンでは、王権の統治をめぐって有力領主層と王とのあいだに紛争が生じた。領主連合の選挙制によって王位の行方が左右される限り、王位継承をめぐる利害対立や紛争はいわばノーマルな状態ともいえる。
1363年、摂政評議会(顧問会議) Råd / Rat に結集した有力領主たちは、王マグヌス・エーリクソンの廃位と新王への交代をめざした反乱を起こしたが、王権派連合によって鎮圧され、域外に逃避した。彼らはバルト海の対岸地方の有力領主、メクレンブルク家のアルブレヒト――メクレンブルク公の子息――を訪れ、スウェーデンの王として招請した。アルブレヒトは反乱派の領主同盟の要請に応じて、北ドイツ諸侯の支援を得て、バルト海を渡りスウェーデンに上陸・侵攻し、王位を要求した。形勢は転換して、領主層の大半と、ストックホルムやカルマルなどの諸都市で人口の多数を構成するドイツ系住民は、アルブレヒトの王位継承を歓迎した。
マグヌスと子息ホーコン――ノルウェイ王となっていた――はアルブレヒトと領主の多数派連合に反攻したが敗れ、マグヌスは捕らえられた。このとき、デンマーク王権がホーコンに味方して介入した。この動きに対抗して、北部ドイツ諸侯とハンザ諸都市が新王を支援したため、新王アルブレヒトの優位が確定した。
しかしその後、新王アルブレヒトの政策としてスウェーデン諸地方の王代官職に北ドイツの領主たちを配置したことに農民と領主の一部は不満を抱き、アルブレヒトに対立することになった。まもなく、ドイツ人領主のひどい収奪と抑圧に対して農民たちは同盟して反乱を起こし、それをノルウェイ王ホーコンが支援した。アルブレヒトの政策に不満を抱く在地領主層も農民と同盟を結んで王に戦いを挑み、1371年、ホーコンとスウェーデン領主・農民の同盟軍はストックホルムでアルブレヒトを破った。
その後、一連の戦役でスウェーデンの領主層の多数派連合は、アルブレヒトへの支援と引き換えに、スウェーデン域内での統治権のほとんどを摂政評議会に委ねることを求め、この条件を受け入れた王と多数派領主との同盟は、反乱派領主・ノルウェイ・デンマークの同盟を撃退した。講和が結ばれ、逼塞していたマグヌスは、王位を放棄してノルウェイに移住することを条件に釈放された。
アルブレヒト王派は優位に立ったが、その後も、スウェーデン西部ではドイツ人王への不信や不満から反抗・紛争が続いた。この紛争のあいだに1384年、アルブレヒトはメクレンブルク公位を相続して、メクレンブルク公領とスウェーデン王国という2つの領地を名目上支配することになった。やがて、反乱派の領主たちはデンマーク王の母にして摂政であるマルグレーテに支援を求めた。
マルグレーテはヴァルデマー・アテルダークの娘でノルウェイ王妃となっていたが、巧みな政治手腕をもって息子オーラフにデンマーク王位を継がせ、さらにノルウェイ王としての選出にも成功した。彼女は幼君オーラフの摂政として、実質的にデンマークとノルウェイに君臨していた。彼女の姉はメクレンブルク公妃であり、姪はポンメルン公妃だった――ことほどさように、北欧・バルト海沿岸でも王位や領地をめぐって相争う君侯たちの家門は、他方では、通婚によって血縁関係で相互に結ばれていたのだ。
さて、マルグレーテは、スウェーデンの反乱派領主層の要請に対して、オーラフのスウェーデン王位継承権の受諾という条件と引き換えに受け入れ、紛争に介入した。デンマーク王権は、バルト海での権益をめぐって争っているドイツ商人=ハンザの権力拡張を阻止するためにも、反乱派を支援し、オーラフが君臨するはずのスウェーデン王国との同盟を構築・運用しようと企図していた。1389年、マルグレーテと反乱派領主層の連合軍は、ファールヒェーピングでアルブレヒト派の軍を破り、この地域におけるデンマーク王権=反乱派領主連合の優位が築かれた。しかし、この紛争のあいだにオーラフが幼くして急死したため、王位継承のゆくえは混沌としかけた。
ところで、北欧諸王国の王権の優位は、それを支える領主連合の力関係にかかっていた。マルグレーテは姪の息子にしてポンメルン公のエーリクを王位の新たな後継者に指名し、1397年、スカンディナヴィア南部の都市カルマルにデンマーク、スウェーデン、ノルウェイの有力領主層を招集し、それぞれの地域における在地の領主集団――団体としては評議会 Dag / Tag ――の統治権の承認を条件として、3つの王位をエーリク・フォン・ポンメルンに兼務させることを認めさせた。こうして、北欧3王国が単一の王に臣従する同君連合関係ができあがった。つまり、3王国のそれぞれの領主連合のゆるやかな同盟の上に乗って、ポンメルン公エーリクという域外出身の王が名目上統治する同君連合ができあがった。これが、カルマルの盟約(カルマル同盟) Kalmarunion だ。
この同盟関係は、1397年から1520年にかけてデンマーク王室と、スウェーデン、ノルウェイの2王国の顧問会議(摂政会議)を中心とする領主連合とのあいだの宗主=臣従協約が持続的に更新されることによって引き継がれることになった。すなわち、デンマーク王位の継承者がこの協約を引き継ぎ、そして2つの王国の領主連合がデンマーク王の統治を受け入れるかぎりで継続する連合だった。ということは、スウェーデン王国あるいはノルウェイ王国が独自の王権を樹立することができないという状況が継続することが前提だった。
ただし、中世の統治観念の常態として、それぞれの圏域の独立と法、つまり王国各域内での領主評議会の実質的な統治権は維持されるものとされた。新王エーリクは、王位就任にさいして各王国の在地領主層には従来通りの特権と統治での影響力を認めることを約束した。しかし、彼は北欧全域でデンマーク王権を強化しようと企図していた。そして、デンマークの領主層は、エーリクの政策によってこの地域でのデンマークの宗主権と権益が強化されるものと期待して、当面は王を支援することにしたようだ。
エーリクはシェーランの宮廷ならびに領主連合とポンメルンの宮廷という2つの権力装置を巧みに操って、権威を北欧に拡張しようとしていた。
エーリクはまず、デンマーク王国のユーランからポンメルンに連絡する回廊としてシュレスヴィヒの併合――シュレスヴィヒ公を臣従させること――をめざした。だが、そのためのシュレスヴィヒ公との戦役は王権に重い財政負担を強いるものだった。この負担は、カルマル同盟の版図全域、とりわけスウェーデンとノルウェイでの税賦課の加重をもたらし、これらの地方でデンマーク王と領主・都市・農民との関係を険悪化させた。デンマークでも、財政負担の増加に対して領主層は王に対する態度を冷淡なものにした。
財政負担の押し付け先はほかにもあった。その頃、バルト海と北海・フランドル方面との通商・海運が活発になっていたため、デンマーク王権はそこから財政収入を得ようとして、ズント海峡を通航する船舶に通航税を課すことになった。海峡通航税は王室に莫大な収入をもたらすことになったが、それは、急速に財力と権力を増しているハンザ諸都市との対立、とりわけリューベックを筆頭とするヴェンデ地方諸都市との敵対を招くことになった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成