第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
さて、15世紀半ばからのデンマーク王権に対する反乱のなかで、スウェーデン中部の有力諸身分の政治的結集がゆるやかに組織化され始めた。独自の王の選出のために領主身分と聖職者に加え、少数の有力都市の代表が参集し、ときにはこれに反乱で有意な役割を演じている武装した有力な自営農民の代表が加わったという。
とはいえ、領主層や聖職者層はそれぞれ固有の利害や意識で独自に行動していたうえに、それぞれの身分集団のなかでさえ派閥分裂や対立があった。つまり、スウェーデンの独立を要求する勢力もあれば、デンマーク王との同盟を求める立場――とりわけローマ教会組織――もあったのだ。というわけで、域内で独自の王権を形成しようとする勢力とカルマル同盟支持派(デンマーク同盟派)との対立抗争が続いた。
そこで、スウェーデン王権の独立にいたる動きを、主な政治的・軍事的事件の継起を追いながら跡づけることにしよう。
1400-1525年のバルト海と北欧
出典:www.wikiwand.com/oc/Union_de_Kalmar
1448年、最高院メンバーで王国の最高軍事司令官 Rikshövitsman となった独立派のカール・クヌッソンがスウェーデン王(カール3世)を宣言したが、独立王権の樹立に反対してデンマーク王権との同盟を求める聖職者および領主の連合との権力闘争が発生した。そして、カールはノルウェイ王位をめぐってデンマーク王クリスチャン1世と争い、ノルウェイの領主連合の支持を得て王位を得たが、スウェーデン領主の多数派が戦争に反対したため、王位をクリスチャンに譲るしかなかった。
それでも結局、カールを盟主とする独立派領主連合は1451年、デンマーク王権との戦争に突入し、域内の戦況と力関係によって、カールは何度か王位からの追放と王位復帰を繰り返すことになった。ところが、カールの王位獲得と統治に反対していたウプサラ大司教や有力領主派閥は、デンマーク王の優越を認めながらも、デンマーク王のスウェーデン王国の直接の介入や課税には強く抵抗した。デンマーク王の宗主権の受容は、スウェーデン王国の法と自立を前提とするものだったのだ。
1467年には、カールは王国顧問会議と統治権を分有するという条件で王位を回復した。70年にカール3世が死去すると、カールの一族であるステン・スチュールが摂政会議のメンバーとなった。ところが彼は、領主評議会
Dag / Tag の指導者となって下級領主層や農民の支持を得ながら、デンマーク王の執拗な介入を回避しつつ、カルマル同盟からの独立を追求した。
他方でデンマーク王クリスチャン1世は、スウェーデン王位を要求し続け、スウェーデンの独立派をたたくために1471年、スウェーデン域内のカルマル同盟支持派と連合して遠征をおこなった。これに対してステンは、ストックホルム近傍のブルンシェベリでデンマーク王とこれに同盟する派の軍を破り、独立派の優位をもたらし、王国内での威信を高めた。以後およそ30年間の安定期が続いた。
だがそれでも、次代のデンマーク王ハンスは艦隊と地上軍を派遣してスウェーデンへの侵攻と威嚇を継続した。今日のスウェーデンの南部はデンマーク王の領地だったので、隣接する有力領主の小競り合い、勢力争いとしては、やむことがなかった。そしてスウェーデン域内では、ウプサラ大司教グスターフ・トゥローレがカルマル同盟の有力な支持者として強い影響力を行使していた。とはいえ、デンマーク王のスウェーデン王位の獲得や直接の介入は拒否していたようだ。
1518年には、スウェーデン王の「トゥローレに対する迫害」を口実として、次代デンマーク王クリスチャン2世が侵攻を企て、20年にはストックホルムを征圧した。その直後、クリスチャンは、和解を名目とする王宮の宴に招いたスウェーデン独立派の領主、僧侶、都市の有力者の大半を捕縛し、処刑し、ここでひとたび、摂政会議に結集して統治していた在地の有力領主層が滅ぼされ、スウェーデンの独立派連合はいったん壊滅した。
ところがこの年、反乱派領主の1人グスターフ・エーリクソン(ヴァーサ)が逃亡先のノルウェイからユーラン、シェーランを経てカルマルに帰還した。彼は、ダーラナ地方の武装農民の支持を得て、反乱を指揮することになった。域内では各地でデンマーク王への反乱が発生した。1521年、ヴァードステナに各地から領主貴族・都市住民・自営農民の代表が集結し、グスターフはこれら諸身分代表の集会で執政職に選出され、その周囲に身分集団ごとに反乱派の同盟が組織されていった。デンマーク王権に敵対するリューベックもグスターフと反乱派連合の支援に回り、艦隊と傭兵団を派遣した。反乱派はこの年、スウェーデン南部での戦争で勝利し、デンマーク王軍を追い出した。
この反乱では武装農民が独立派勢力の有力な一角を構成したため、諸身分のなかで一定の発言力を得た。スウェーデンの独立派連合の優位のなかで、1523年には、グスターフが王に選出された(在位は1560年まで)。そして、この新たな王の選出と王権の形成過程では、領主貴族、聖職者、都市代表、農民という4身分の代表それぞれが別個に集会をおこなう身分評議会
Ståndsriksdagen / Ständetage が組織されていき、これがのちに制度化される王国評議会 Riksdag / Reichstag の骨格となった。
このように王国が諸階級の政治的同盟として形成されるのにともなって、諸身分団体が制度的に確立され始めたようだ。域内での統治を担っていた顧問会議(摂政評議会)の多数派はグスターフ派によって占められた。
1523年、新王グスターフはカルマル盟約を破棄したので、同盟の主要部分をなしていたデンマークとスウェーデンの同盟はここでひとたび解体され、スウェーデン王国の「主権」がはじめて成立した。
おりしもこの年、デンマーク王クリスチャン2世は反王派の貴族連合によって王位を奪われ、シュレシヴィヒ公とホルシュタイン公を兼務するフリードリッヒ(フレデリク)に王位が継承された。デンマークは王が交代したため、スウェーデン王国の独立を阻止することができなかった。
クリスチャン2世は権力欲も旺盛だったが、思想的にはずいぶん開明的だったという。ヨーロッパ世界貿易で急速に台頭してきたネーデルラント諸邦と提携してバルト海での通商優位を得ようと試み、域内諸都市の商人団体を育成しようとしたらしい。そのため、ハンザ諸都市と敵対し、リューベックと戦った。また、所領農民を圧迫する領主の権力を抑制して農民(農奴)の地位を向上させようと改革を試みた。
これらの政策のいずれもが有力領主層の反発を買ったため、王位から追われることになってしまったという。発想は進歩的だが、王権の足元を固める努力には注意を払わなかったようだ。
それでもその後、デンマークのノルウェイに対する優越(宗主権)や王位を確保していたため、この2王国とのあいだにはカルマル同盟(同君連合)が継続し、名目上、2つの王家の盟約としての同盟の残骸は1536年まで命脈を保った。しかし、この年、デンマークの王と摂政会議は一方的にノルウェイの王国としての独立を否認して、デンマーク王国の属州とする宣言を発した。とはいえ、ノルウェイ王国の中央政府と法体系は存続した――しかし、ノルウェイの領地だったアイスランド島、グリーンランド島はデンマークの領有となった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成