第7章 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
――辺境からの離脱の試み
この章の目次
17世紀にスウェーデン王権が創出した独創的な軍事組織と軍事技術は、その王権をヨーロッパの権力闘争の檜舞台に押し上げただけでなく、ヨーロッパ全体の軍事的環境を変動させる主要な要因の1つだった。その軍事組織・軍事技術は一連の変革過程の産物だった。その新たな軍事組織によって、スウェーデン王権の急速な対外的膨張が始まった。
スウェーデンでの「軍事革命」には前史がある。スウェーデン王権と軍事部門の指導者としての貴族層は、ネーデルラント連邦と深い結びつきがあったのだ。
16世紀半ば以降、ネーデルラント諸都市はヨーロッパの軍事組織と戦争技術、戦法をリードしていた。その背景には、ネーデルラント諸都市商業資本の世界市場における最優位があった。ユトレヒト同盟は、世界貿易で獲得した利潤によって常時最新鋭の武装を備えた専門的な軍隊を組織・運営することができた。兵員への定期的俸給支払いを土台として、軍の指揮命令系統への服従や高水準の規律と士気を確保できた。指揮官たちは、日常的に兵士を訓練し、兵器の扱いや陣形、戦闘技術、塹壕土木や築城技法を習得させることができた。
オラニエ公マウリッツと同僚たちは、ユトレヒト同盟の政治的独立と戦略的安全を確保するために、ヨーロッパ中からプロテスタント派貴族を集めて教育訓練する士官学校を創設した。士官学校で培われた人脈は、ヨーロッパ的規模でのプロテスタント派の情報連絡ネットワークや利害意識の共有をもたらした。士官学校では、ヨーロッパの軍事革命がもたらした軍組織の運営や戦争に関する最新の知見を学生に指導した。この士官学校出身のスウェーデン貴族がスウェーデン王軍の軍事教官になった。
グスターフ2世の軍制改革によって、ネーデルラントで開発された戦術や戦法がさらに洗練されて王の軍隊に取り入れられていった。グスターフの軍では、横列隊形をとるマスケット銃部隊は、厳しい訓練を経て、6列またはそれ以下の奥行きで連続的な一斉射撃をおこなうことができたから、軍の機動性と運動能力はヨーロッパでも飛び抜けていた〔cf. Howard〕。このような軍事組織と戦争技術の洗練と革新は、バルト海地域で持続した戦争の経験をつうじて実現されていった。
たまたまスウェーデンでは独特の社会構造のなかで、王権の指導下で貴族と民衆の軍役奉仕義務が整備され始めていた。王権は軍制改革によって、ほかのヨーロッパ諸王権が不可能だった、長期にわたって反復・連続する戦役に兵員を動員する社会組織・制度をつくりだすことができた。
王権は16世紀半ばから、農村での徴兵制度をつうじて長期に服務する軍隊を手に入れていた。実際に戦役に召集されるのは、徴兵義務者の10人に1人だったが、残りの者たちはその1人の装備をまかなうために納税の義務を負うことになった。地方共同体が地区ごとに兵士の派遣と戦費割当税の支払いに責任を負う制度だった。
歩兵団に属す農民兵は、平時に域内にいるときは王室財政からの支払いを受けることなく、駐屯農地で訓練の合間に自ら耕作するか、割当地で収穫された農産物から食糧を配給された。域外での軍役では、原則として王室からの俸給を受けることになっていたが、多くの場合滞りがちだった。そこで、占領地や征服地での軍税賦課や物資徴発、略奪によって、スウェーデン軍は財貨や食糧を調達し、兵員に分配した。とはいえ、域外での戦争が頻発・持続するようになると、人口資源の少ない域内で徴募した兵員を派遣し続けるのは困難になったうえに、装備や俸給に必要な財源も王室財政の規模ではまかないきれなくなった。その限界は三十年戦争のさなか1630年頃に明らかになったようだ。
それにしても、スウェーデン王権が組織・運用した軍隊は「粗野で乱暴な流れ者」や「狡猾な商人」あるいは「武装した物乞い」としての傭兵からなる旧弊な軍隊ではなく、最新鋭の銃砲を操作できる規律と忠誠心に富んだ農民歩兵団からなる近代的な軍隊だった。指揮への服従や規律、訓練をいとうような下層民・流浪民は、兵団から排除された。歩兵たちは、王国域内では休養地と耕作地を分与され、居住地区(軍政区)ごとに連隊に配備された。兵員の服装、大砲、銃、剣や装具などの軍儒用品は王権の支給品とされ、規格化されていた。
さて、1611年に王位を継いだグスターフは、デンマーク王権との消耗な戦争を講和にもち込んだが、バルト海の対岸への軍事的侵略を継続した。1611年から1630年まで、スウェーデン王権はバルト海とヨーロッパ大陸で間断なく戦役にかかわっていた。
スウェーデンの戦役
1611-1613年 | カルマル戦争 (対デンマーク) |
1613-1617年 | イングリア戦争 (対ロシア) :ストルボヴァ条約でロシアからイングリア獲得 |
1621-1629年 | 対ポーランド戦争 |
ポーランド戦役でトゥルコと対戦(コチンの会戦) | |
1630年 |
ポメラニアに上陸侵攻⇒三十年戦争に介入 |
そして、ポーランド侵攻の帰結として、1630年にグスターフはポンメルンに上陸したが、それがすでにかかわりあっていたドイツ三十年戦争にさらに深く巻き込まれる端緒となった。
この年、スウェーデン王の軍組織は7万2000人の軍隊を動かしていたが、そのうち過半数は本国の兵員だった。貧弱な王室財政にとっては、域内の防衛には徴募兵を当てざるをえなかったけれども、域外での戦役では戦地で傭兵を組織して戦う方がずっと安上がりだった。だから17世紀になると、域外での戦争では、軍の主力はしだいに傭兵になっていった。三十年戦争では、1632年時点でスウェーデン王軍の14万の兵員のうち、9割以上がドイツで集めた傭兵だったという。
しかし、軍の組織=指揮系統と作戦における傭兵の位置づけは、従来のヨーロッパのそれから全面的に転換していた。スウェーデン王軍では、駆け引きに長けたしたたかな商人でもある傭兵隊長が部隊を指揮運営するという古い方式は、排除された。
軍の編成と訓練、運営と物資補給はスウェーデンの制度に従っておこなわれた。王軍の長期服務兵は、将校はもとより一般兵についてもおしなべてその俸給と兵器、装備はすべて王室によってまかなわれ、その代わりに王自身またはその代理である将軍の指揮命令に全面的に服すものとされ、服務と規律の遵守は軍事法廷によって厳しく統制された。そして、軍への補給と兵站は全面的に王権国家の責任だとされた。
ただしヨーロッパ大陸での補給は、略奪まがいの軍税の徴収をつうじての現地調達であったから、域外でのスウェーデンの軍隊には非戦闘要員(補給要員や兵站管理要員)もいないし、攻撃に脆い補給線もなかった。長い補給線は戦略的弱点となったから、スウェーデン軍は機動戦を営みながら、他方で移動・転戦した諸地方で経済的資源を収奪する財政的活動をおこなう経済組織・経営組織でもあった。
こうして、スウェーデン王権は、域外での戦争によって域内の財政負担をほかのヨーロッパ王権ほどにひどく加重することなく、つまり、域内諸階級の収奪・搾取をそこそこに抑えながらヨーロッパ諸国家体系での軍事的地位を高めていく、非常にユニークな政治体となった。そして、王グスターフはこの相次ぐ戦争の期間はずっと域外にいたわけで、それでも域内の統治は比較的安定していた。その王権の統治組織を支えていたのは、宰相ウクセンシェーナが指導する貴族層の連合だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成