第8章 中間総括と展望
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こうして、フェリーペ2世はネーデルラントでは反乱派と戦い、不安定なイタリアとイベリアを統治しながら、遠く離れた新世界の領土をも統治しなければならなかった。とくにヨーロッパ経済の危機のなかでは、莫大な財貨をもたらすアメリカの「帝国」を維持することは、至上命題だった。そのためには、大西洋のかなたに統治機構を拡大し、エスパーニャ人植民者とインディオを統制しなければならなかった。
カスティーリャ王権は植民地の統治組織を拡充するために、そしていくぶんかは王室収入のために、新世界の行政官職を売り出した。これに、本国では目の出なかった猟官者たちが飛びついた。アメリカで「一山当てよう」として官職購入と渡航費に金を費やした新任官僚たちは、アメリカで職権を利用(私物化)して利権をあさった。植民地統治には乱脈と腐敗がはびこった。官職は身分特権であったから、不可避的な事態だった。
ところが王権には、植民地で強力な直属の官僚機構をつくりあげ統制するだけの力量はなかったので、植民地人に独自の統治を認め、植民地行政にインディオ首長を組み入れて協力させた。というわけで、王権の側では植民地のエスパーニャ人を効果的に統制することはできなかったので、彼らに多くの譲歩をした。
一方、植民者の側では、本国の王権官僚による統制に不快感を抱いていたが、イングランド人やネーデルラント人の攻撃や貿易の侵害を防ぐためには、王権による支援が必要だったから、マドリードの通商院に表向き盾突くことはなかった。
だが、16世紀をつうじて新世界植民地では、人口が増加し、農業が発達して都市化がある程度進むと、現地に独自の支配階級(エリート)が形成され、本国の緩やかな統制を受けながらも、アメリカ大陸規模で穀物や食肉の貿易・調達体制と地域間の支配=従属関係、植民地域内の分業体系をつくりあげていった。アメリカ植民地の規模は拡大し、ヨーロッパとの貿易も膨張した。
そこにはネーデルラント、次いでイングランド商人が割り込んできて、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカを結んだ三角貿易を組織し始めた。こうして植民地は、本国とは相対的に独自別個の利害に沿って動くようになった。農業構造も変動して、ヨーロッパ向け特産物生産のためのエンコミエンダが衰退して、植民地域内の諸都市での消費に向けた農産物生産を行うアシェンダが優越するようになった。しかも、16世紀末からはペルーの銀山経営が停滞し始め、17世紀初頭には壊滅してしまった。
こうして、植民地に独自の支配階級が成長し、産業構造が転換していくと、ヨーロッパとの貿易構造が変動した。植民地(購買力の大きい富裕層)の需要の主な向け先は、食糧や生活必需品から熟練した技能が必要な製品、たとえば上質の毛織物や絹織物、高級家具、金属製品、奢侈品などに変化した。それらは、ヨーロッパの製造業や商業から調達されるはずのものだった。
だがカスティーリャでは、王権の苛酷な収奪によって、さらに保護障壁もないままに域外から挑まれた苛烈な競争のなかで、商工業は成長を抑圧されてしまっていた。王権は、有力貴族のブロックであるメスタ評議会の利害に沿って、カスティーリャにおける毛織物業の独自の発展を封じこめてきたし、貴族の免税特権を守りながら歳入を増やすために、増税に継ぐ増税で都市商工業を収奪しつくしていた。農村は過酷な収奪を受けて、農業もまた停滞をきわめていた。しかも、域内商業と製造業の保護育成はないがしろにされてきた。衰弱した商業と製造業は、16世紀末の経済危機で壊滅的な打撃受けていた。しかも、カスティーリャに流入する銀地金が激減してきた。
というわけで、アメリカ植民地との新たな貿易構造には、工業製品の供給能力を備えたネーデルラントやイングランド、北西フランスの商人たちが堂々と割りこんできた。彼らは自前の船舶海運で貿易に参入するようになった。もはやエスパーニャ王権には、多角化した対アメリカ貿易について統制する能力はなかったのだ。エスパーニャの商人・海運業者が自らアメリカに工業製品を輸出する場合にも、その調達先は北西ヨーロッパの商人だった。
そのため、植民地から本国に送られてきた貴金属などの財貨は、エスパーニャ王室に納められる前に、王権と軍事的・政治的に敵対する諸国民の貿易業者と製造業者への支払いに回されることになった。皮肉なことに、植民地および植民地貿易が成長することが、エスパーニャの経済的地位を掘り崩し、域外への通商的および産業的従属を深めるという構造になっていた。
ところで、16世紀半ばのフランス王権との講和もつかのま、フェリーペ2世の指揮する戦線は、16世紀末には地中海にも広がった。オスマン帝国が地中海東部を席巻し、ナーポリ、マルタ、シチリア、サルデーニャを圧迫していたからだ。他方で、エスパーニャ王権はポルトガル王国を併合したうえに、ネーデルラントの反乱も征圧しようとしていた。
エスパーニャ王権の勢力拡張を恐れたイングランド王権は、エスパーニャの航路に私掠船団による攻撃をしかけてきたた。そのため、ネーデルラント戦線への海上補給路はひどく攪乱されることになった。また、フランスとは宗教紛争をめぐって散発的な戦闘が続いていた。16世紀末、ユグノー紛争を収拾したブルボン王権は、集権化を進め、軍を強化し、エスパーニャに本格的な戦争を挑みそうな気配だった。そのうえ東洋では、エスパーニャに属すことになったポルトガル領とその船団をネーデルラント艦隊が攻撃するようになっていた。
ハプスブルク王朝が防御すべき戦線も地球を一回りするほど広がってしまった。こうしてエスパーニャ王権は、広がりすぎた戦線を縮小するために、17世紀初頭には、ユトレヒト同盟と講和せざるをえなかった。
だが、財政はいきづまっていて、戦争の合間に訪れる数年間の停戦期間にも借款の返済に追われて、カスティーリャの税負担は軽減されなかった。実際のところ、平時の王室の歳入を、たまりにたまった借款の返済にやっと回して、再開する戦争のために新たな借入れの条件をどうにか取り繕うのが精一杯だった。
ところが、エスパーニャ王権は1618年からはドイツの三十年戦争に自ら踏み込んだ。またしても、戦争が王室財政を食いつぶそうとしていた。はじめのうち戦況は優位だったが、フランス王権が――その支援を受けたスウェーデン王権がプロテスタント派として――本格的に参戦すると、戦局はしだいに手詰まりになっていった。
しかも、カスティーリャ経済は苛酷な税の搾取で疲弊しきっていた。1640年代に入ると、苦境に陥ったオーストリア王権は戦線を離脱しかけ、大規模な決戦を避けて、講和交渉の駆け引きのための小競り合いに終始するありさまだった。エスパーニャ域内でも、増税や集権化に対してカタルーニャ地方で反乱が続発した。
王軍をその鎮圧に差し向けているあいだに、今度はポルトガル貴族層が反乱を起こし、盟主を王に仕立て上げて王権の独立を宣言し、イングランド王権と同盟した。しかも、ピレネーにはフランス王軍が侵攻し、エスパーニャ王軍の攻囲のなかでフランスに支援を求めたバルセローナをあろうことか征圧し略奪した。長期の包囲ののちフランス軍から奪還されたバルセローナは消耗しきっていた。
1648年のヴェストファーレン条約ののち、エスパーニャは誰の目にも明らかな没落の道をたどることになった。17世紀後半には、農業危機と食糧不足のなかで栄養不良になった民衆を疫病が襲った。経済的従属への道を転がり始めたイベリアでは、ついに18世紀はじめにハプスブルク王朝が断絶し、ブルボン家にエスパーニャ王位が継承された。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成