第8章 中間総括と展望
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王権国家が抱えていた問題は、財政収入の乏しさだけではなかった。国家装置・行政装置の運営にともなう出費の管理もまたひどく雑だった。
この時期のヨーロッパの王権政府では、通常、「財政収入と支出との均衡」という観念もなければ、予算管理という思想の断片すら、まだ生まれていなかった。王権はささいな理由を見つけては戦争を企て、初期のわずかな戦費を特別税や商人からの支援金によって獲得すると戦争に突入し、そのあげく歳入の数倍から十数倍におよぶ戦費をつぎ込んだ。ゆえに財政逼迫が常態であって、金融市場でまともな信用(借入)能力を認められるはずもなかった。
都市や商人団体が、強大な王権国家に対して、いまだ「そこそこの」交渉力や競争力を保持していたのは、財政における商業(収支)会計の手法を身につけていたからだった、と見ることもできる。だが、商業都市でも、北イタリアの都市政府には君侯権力の要素が強くて、あるいは支配階級諸分派の利害闘争が熾烈であるためか、政府財政の運営に商業会計の導入がままならないところもあったようだ。
これに対して、王権国家ではなく主権をもつ諸都市の同盟(連邦)国家であったネーデルラントでは、徴税請負制は厳格な商業計算にもとづいておこなわれたので、入札価格は正確に査定されていた。ゆえに、徴税請負商人たちはほとんど利益を引き出せず、手数料が出ればよいくらいだった。つまり、税の政府財政への収納にあたってロスがほとんどなかったわけだ。
こうして見ると、政府機構の運営様式、とりわけ財政が商業会計の原則に準じて管理されるかどうかということは、国家装置の構造と機能の歴史において決定的な転換点をなしているようだ。この点に関して、当然のことながら、商業会計原則による政府財政の統制が可能になるのは、商業資本の上層が枢要な国家装置(王の顧問会議や議会)に多数派として入り込み、その運営を制御する権力を保有する場合だけだった。
このような条件を満たすのは、ネーデルラント連邦と市民革命後のイングランドだけということになる。
ずっとのちに国家形成の先進例――ネーデルラントとイングランドの成功――から学んだプロイセンの国家官僚・軍人たちは、商業会計を国家装置の運営の原則として厳格に適用した。19世紀にドイツ統合の中軸となったプロイセン王権国家の強さをもたらした大きな要因の1つがそこにあった。
また、ネーデルラントやイングランドでは、都市を含めた地方行政において、行政役人や治安判事が無給で職務を遂行していた。もとより、自らの行政権限の行使――官職として収集した情報や人脈・機会の活用――によって直接間接に収入を引き出したが、政府財政には負担をかけなかった。
これに対してフランスやエスパーニャでは、官職を買い取った官僚たちが、王権から俸禄・年金を受けたうえに所領経営資産や収益には免税特権を与えられながら、さらに行政権の行使から収益を引き出そうとした。これでは、両王国では、都市住民や農民からの収奪が厳しいわりに、政府財政にはロスが多く、貧弱な収入しかなかったわけだ。政府財政の費用効果が格段に劣っていたのだ。
このような行財政装置の行動様式と心性の差は、社会構造に根ざしているのだろうか。ネーデルラントやイングランドのように豊かな財源をもつ政府では、むしろ地方行政官たちは有力な地主や商人としてそれぞれ独自の収入源=経営基盤をもち、官職としては無給で奉仕していた。もちろんそれは、目先の収入増よりも、統治階級としての自分たちの経済的優越をもたらす秩序の安定を優先したのだった。それは結果的に、地方の支配者としての自分の所得を長期的に見て最大化することになった。
つまり、客観的に見て、彼らは共通の階級的利害を意識していた。国家の強さ(費用効果の高さ、規律や機能性)の差はこの事態に根ざしているのではなかろうか。フランスと比べて、やがて世界経済で最優位を獲得するイングランドの国家制度上の特質は、イングランドでは商業資本が――王権政府の中枢に席を占めることは両王国に共通だったが、これに加えて――議会をつうじて国民的規模で結集し、政府財政を効果的に統制していたということだった。
だが、この点を除けば、社会の政治的凝集の密度や国家の諸制度の組織形態は、――辺境地帯への域外資本の浸透という事情を除けば――イングランドもネーデルラントもフランスもおそらくそれほどの大差はなかった。国家装置は身分制秩序に沿って組織、運営され、特権的商人団体や貴族の権力に依存していた。とはいえ、財政資金の調達方法と行政運営スタイルの相違は、大きな差をもたらすことになったのだ。
たとえば、イングランド政府に豊かな資金を誘導したイングランド銀行は、最有力の特殊なロンドン富裕商人の団体であって、(政府機関ではないが)政府から特権を与えられて国家装置としての機能を担っていた。ゆえに、銀行と議会、枢密院のあいだには利害の対立があり、政策をめぐって論争が生じて調整がはかられることは通常のことだった。
ネーデルラントはもっと極端で、中央政府は幼弱であって、アムステルダムの都市団体と商人団体がホラント州政府をつうじて、ユトレヒト同盟の軍事政策や外交政策を運営していた。ここでは、特殊な商人グループが国家を牛耳り、代位していたのだ。
したがって、初期ブルジョワ国家の政府は、王権の家政装置が国家機能を担う絶対王政と、組織形態論的に見て、決定的な差はなかった。問題は、官職保有者の行動様式の違いから帰結する〈政府組織の統治効果の差〉だった。
さらにまた、国家や領土の規模も影響しただろう。ネーデルラントとイングランドは、地理的範囲および人口、そして都市商業資本の蓄積度合いなどから見て、国家の大きさとコンパクトさが「ほどよい位置」にあったということだ。
いくら域内商業資本の世界市場での最優位を確保していても、ネーデルラントよりもかなり小さければ、有効な軍事的防衛に必要な領土としては不十分だったろうし、イングランドよりもかなり大きければ、初期ブルジョワ政府の財政能力や軍事力から見て守りきれず、また辺境諸地方の統合をめぐるリスクとコストに対応できなかっただろう。
他方で、統治圏域の一定規模以上の広大さとは、この圏域がいくつかの地方圏域への分立傾向が大きいということを意味した。とりわけ辺境防護のリスクやコストは多くなった。
フランス王国では、域内の支配的諸階級・諸分派が1つの国民として独特の凝集を組織化する装置としての中央議会装置(身分評議会)がノーマルな国家装置として機能できなかった。この事情は、言い換えれば、各地の支配諸階級が地理的にかなり分離して存在していたため、王権への影響力を強めるために議会装置に結集する必要性や可能性を真剣に考慮する機会がなかったということではないか。
フランスの外見状の強大さと国家としての弱さ、統治効果の低さは、この文脈から説明できそうだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成