第8章 中間総括と展望
この章の目次
このように考えてみると、「地方市場から国民市場を経て世界市場へと上昇する」という説明の論理は、実際の歴史には合わないうえに、各レヴェルの市場が重層している歴史構造を叙述する方法としても、まったく間違っている。むしろ、世界経済の文脈こそが諸国民の形成を説明するということになる。
世界市場は一般の地方市場とはまったく別の次元で生成、権力構造のヒエラルヒーの上層で成長し、いきなり多数の地方市場の頭上に立ち現れて支配し暴威をふるい、一方にその暴威=収奪からの離脱を求める対抗集団を生み出しながら、国家をつうずる国民市場への統合を政治的に強制したのだ。世界市場の形成が国民国家、それゆえまた国民市場の出現を条件づけたのだ。
そして、土台としての経済構造を本質的な要因と見なして、そこから派生的に国民国家という政治的上部構造を説明するという方法は、成り立ちようがないということにもなる。
つまり、国民経済とは、世界経済の――政治的・軍事的単位としての――諸国民国家への分割という状態のなかで、この国民国家という政治的空間の内部で組織された社会的再生産の部分システム、下位システムにほかならない。つまり、世界経済の非自立的な部分システム=下位システムなのだ。国民経済とは政治的・軍事的事象と絡み合った経済的現象なのであって、それゆえ、「純粋に経済的次元において国民経済を原理論的に把握すべき」という方法は、事象の重層的な構造にまったく無知な、まったくばかげた試みでしかない。
もちろん、認識のごくごく初歩的な段階で、そのように事態をごく単純化して分析することを否定するわけではない。だが、それは「認識」とも呼べないほどに一面的で未成熟な知見でしかないのは、いうまでもない。
私たちが見てきたのは、実際の歴史としてのヨーロッパ経済の動きであって、言い換えれば各地での実際の生産物や貨幣の動き、それゆえ景気循環が、諸王権・諸国家の戦争や軍事政策によって内容的に直接制約され、方向づけられるという過程なのだ。
また、政府の租税政策や産業政策は、社会の総利潤のうちどれだけをどの部門から政府財政に取り上げ、どの部門に優遇的に配分するかを方向づけるものだ。国家自身が国有化や国営化で産業を企業を直接的に経営することもある。
つまり、国家政策や政治は、人びとの意識を規制したり方向づけたりすることで物質的な資源を動かし、また重要な戦略産業部門で経営をおこなうことで、経済的再生産過程の動きに重要な変容を与える要因となっているのだ。したがって、マルクスの想定にもかかわらず、政治的諸関係を後回しにして経済的諸関係をそれ自体として分析するだけでは、社会的再生産のありようを理解することはできない。
内的連関性にある諸要因を分断して考察すれば、トータルなイメイジとしての歴史は描かれることはないのだ。
ゆえに、現実の世界市場や国民市場で作用する「価値法則」なるものも、権力構造の作用として理解されなければならない。それは、政治的・軍事的権力の媒介作用を受けた総体としての社会的再生産において、「資本の支配」の媒介要因としての「等価交換」、あるいは「資本の権力」の作用のひとつの形態としての「等価交換」にほかならない。つまり、資本にとっての生産性を尺度とする等価交換を強制する不平等交換の仕組みなのだ。
価値法則は不平等交換を強制するメカニズムであって、格差と不平等が構造化された世界市場のなかで、不均等な社会的条件に置かれた労働形態による生産物を、支配・優越する側に有利に交換させる、搾取と収奪、支配と従属を帰結する法則でしかない。これは、近代的な生産形態とそれ以外の形態とのあいだで、それゆえまた中核と半周縁・周縁とのあいだでおこなわれる経済的交換で、とりわけその効果を発揮する。
この格差と不平等を土台とする支配と収奪を帰結する交換関係は、国民市場のなかでも構造化され、地方市場にまで貫徹している。
このような視点に立ってマルクスの《資本》を読むとき、従来の理解とはかなり異なった資本主義の姿が見えてくるはずだ。前に私たちが、カール・マルクスの《資本》《経済学批判の体系》とは、国民国家の存在をまったく捨象したうえに、資本主義的生産様式だけしか存在しないという想定の上に組み立てられた、きわめて抽象的な世界経済の理論である、したがって現実の世界システムとしての資本主義と国民国家を分析するためには相当な修正と追加加工が不可欠であると述べたのは、このような根拠による。
19世紀中葉のイングランドで研究生活をおくったマルクスは、その時代のブリテンの政治経済学の有力な傾向によって相当に影響を受けている。当然のことながら、マルクス自身もまた、理論化や理論内容について歴史的・イデオロギー的存在拘束性を免れなかったのだ。マルクスの理論もまた、カール・マンハイムが指摘したように特殊なイデオロギーとしての歴史的・社会的な存在拘束性を免れないのだ。
当時の有力な政治経済学者の多くは、経済的再生産の過程は「神の見えざる手によって」導かれて、自律的に発展運動をしているから、一般に――ブリテンに限らずヨーロッパの――国家=政府は産業保護育成政策や輸出入関税障壁などの介入を極力排除していくべきだという意見をもっていた。
ウォラーステイン流にいえば、当時イングランドは世界経済の最優位に立ちヘゲモニーを握っていたから、自由貿易と自由主義的経済の原則を世界経済全般に適用させ、その優越性と権力を無制約=自由に行使したいというのが国民的利益だったのだ。そういうブリテンの資本家階級の意識や願望の学術への反映ないし投影が、「経済の自律的運動」というイデオロギーだったのだ。マルクスの発想や方法論にも、そのようなイデオロギー的バイアスかけられていたのだ。
マルクスたちが提起したイデオロギー批判の方法をマルクス自身の理論に適用すれば、おおむね以上のようになる。
その意味では、この研究は《資本》の叙述を前提にしながら、それに幾重もの複合的な修正と組み換えを加える試みだともいえる。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成