第8章 中間総括と展望
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フランス王国は、財政能力や行政運営スタイル、領土規模などの点について、国家として生き延びるために中央政府が有効な統治効果を発揮するには臨界点ギリギリだったようだ。この統治効果を示す兆候は、王権による本格的な重商主義的政策の展開だった。世界市場的文脈における国民国家形成という視点から重商主義を考察してみよう。
フランス王政は、断続する戦争や諸国家の対抗のなかで、かろうじて王国の統合を維持し続け、1世紀のちに、市民革命をつうじて国民的統合をさらに進めるための基盤を形成(準備)することができた。このような最低限度の統合水準を維持できた最大の要因は、王権国家の中核に結集した統治集団の行動様式と利害意識、心性のありようだった。16世紀から17世紀後半にかけて王権の構造と性格、行動スタイルは変化していったのだ。
16世紀までは、官職・貴族身分を買い取った富裕商人の多くは、商人としての心性や行動様式を著しく希薄化させて、地方での所領経営・免税特権や王権からの俸禄、官職権限による特権の切り売りなどから収入を引き出そうとする貴族身分として、集権化を進める王権に盾突く地方貴族に接近・融合しがちだった。しかし、17世紀なると、有力商人層は商人としての利害=心性と行動様式をしたたかに維持したまま、宮廷の高官となり、訴願審査官や地方監察官として行動し、集権化のために地方の高等法院や評議会の権限を切り崩していった。
かくして地方貴族層に対して大きな優位を得たフランス王ルイ14世は、ヴェルサイユに大宮殿を造営してその周囲にほとんどの有力貴族を集住させることに成功した。彼らは宮廷の周囲で権威を競い合い、そのために王との恩顧関係を強めるために競い合うことになった。
彼らは、世界市場競争におけるネーデルラントやイングランドに対するフランス商業資本の著しい劣位を痛切に自覚して、大規模な王立マニュファクチュールを創設することで、域内の繊維製造業や高級輸出品製造業を王立ギルド――特許商人団体――を中心とする統制システムに組織化していった。これは、とりわけネーデルラント商業資本によって域内の市場と諸産業が支配・掌握され、あるいは圧迫されているという事態について、相当な危機意識をもっていた証左でもあった。
この点については、フランスはエスパーニャと全然違っていた。これが、国家形成の成否を分けた最も主要な要因の1つだ。
世界市場での劣勢の挽回や従属状態の克服に向けた努力という点では、イングランドも相当なものだった。ピュアリタン革命後の共和政権は強力な艦隊を組織して、ネーデルラントの海外貿易に執拗な攻撃を仕かけた。域内では多くの製造業に輸出奨励金による助成や輸出関税免除をおこない、羊毛をはじめとする工業用原材料の輸出を禁止し、品目によっては高額の輸出関税を課し、輸入製品には高率の関税を課したり、品目によっては輸入そのものを禁止・制限することもあった。域内産業保護政策は、名誉革命後にはいっそう系統的に整備されていった。
イングランドもフランスもともに北アメリカやカリブ海などで植民地の獲得にも積極的に乗り出した。ことにイングランドは、武装した商船を使ってエスパーニャのアメリカ大陸やカリブ海の植民地との交易に割り込んでいった。また、連邦国家としては表立った重商主義を採用しなかったネーデルラントだが、連合東インド会社(VOC)としては、インド洋から東南アジアのポルトゥガル植民地や貿易拠点・軍事拠点を攻撃、駆逐して、排他的な植民地経営を組織していった。連邦国家は重商主義を採用しなかったが、個々の都市やVOCは重商主義的行動スタイルを取っていた。
要するに、それらは重商主義的政策であった。こうして、重商主義とは、世界市場での自国商業資本の運動を包括的に支援・管理する政策体系ならびに政策思想を意味する。イングランドの重商主義的政策は、世界経済での覇権を掌握しているネーデルラント商業資本ブロックの優越と影響が国内に浸透し続けることを阻止し、域内の商業資本の政治的結集と武装独立を実現して、世界分業での従属的地位や劣位を克服することを目的としていた。
では、世界経済でヘゲモニーを握っていたネーデルラント商業資本と国家はどうだったか。彼らは最優位を謳歌していた。ゆえに国家的統合を強め、国家による世界市場競争の支援の必要性を切実なものとしては意識しなかった。彼らにとっては、当然のことながら、彼らの権力が容易に浸透するためには、その浸透を阻害する諸国家の障壁ができるだけ小さい方がよかった。ネーデルラント商人ブロックはすでに世界経済での最優位を達成していたから、いわば「自由貿易帝国主義」の原則をモットーにした。
ネーデルラントは域外に対しては貿易障壁の撤廃を求め、あるいは武力で貿易障壁の撤廃を強要し、貿易競争にともなう熾烈な武力衝突を厭わなかった。だが、そのための軍事力の配備と運用にあたっては、連邦国家の拡充や統合の強化によってではなく、もっぱら各州や都市の自立的権力の維持や拡大によっていた。
それは、1世紀半のちには、ヘゲモニーをネーデルラントから奪ったイングランドの専売特許となった。関税障壁の撤廃、自由な国際分業、自由な等価交換、つまり通商能力の格差と不平等・不均等という「弱肉強食の論理の自由な貫徹」こそが、ヘゲモニー国民が希求する原理なのだ。
ネーデルラントの自由貿易は徹底していた。16世紀末のエスパーニャとの戦争中も、ネーデルラント商人のうち、あるグループはフェリーペ2世の政府に兵器や弾薬、武具、食糧などの戦略的に重要な物資を売り込んでいた。彼らにとって、エスパーニャは気前のよい上得意先だった。戦争相手と巨額の戦略的物資を取引きし合っていた。現代人の意識では、戦時貿易統制がないのが不可思議だし、売る方が売る方なら買う方も買う方だということになるが、なにしろ国民主義
nationalism が成立していない時代だったのだ。
とはいえ、イングランドやフランス、スウェーデンなどの王権国家が攻撃的な重商主義的政策を掲げて世界市場競争に参入してきた。海軍の影響力が増大たために軍事戦略・戦術上の観点から、貿易利害とは関係がなくても、軍事拠点を確保したり、競争相手の拠点を叩くために海外拠点を確保しようとする場合もあった。こうして世界市場での政治的・軍事的対抗の強度は従来にも増して熾烈になっていった。そうなれば、ネーデルラント諸都市や商人団体も強力な艦隊を運用して戦争に臨むことを厭わなかった。
ネーデルラント連邦には強力な中央政府はなかったが、経済的・政治的な側面では商業資本の政治的凝集が、その当時の水準では世界のどこよりも強固に組織されていた――当面は、という限定条件をつけてのことだ。この連邦の1州にすぎないホラント州と世界都市アムステルダムの権力は圧倒的だった。さらに、この時代(17世紀半ばから18世紀はじめ)のヨーロッパの地政学的状況によって、その最優位は守られていた。このとき、膨張していたフランス王権とのあいだにはエスパーニャ領フランデルン、ブランバントという緩衝地帯が横たわっていたうえに、フランス王権の膨張圧力に対してイングランド国家――これまた圧倒的な財政能力と海軍力を備え始めていた――が立ちはだかっていたのだ。
だがネーデルラント商業資本とアムステルダムは、世界経済での最優位を「ごく当たり前の状態」と意識していたから、それを永続化させる努力――国家の中央集権化と貿易支援装置の創出――を怠っていた。というよりも、最優位に立つがゆえに、世界市場競争で劣位にある諸国民の努力と闘争心を経験から学ぶ立場にはなかったということだ。ゆえに、この無防備なレジームは、恐ろしいライヴァル、イングランドの急追と追い抜きを割合に簡単に許してしまうことになった。
スウェーデン王国は、人口や経済の規模から見てそれほど強国というわけではなかったが、有力な領主層および商人貴族層の連合は王権の周囲に強固に結集し、統治階級の凝集性が高かったうえに、国内に当時最も重要な工業製品(とくに兵器)の原料だった鉄と銅、そして重要な船舶用材の生産拠点を保有していた。スウェーデン王権は、ヨーロッパ諸王国にとって戦略的に有用な経済的資源の調達先であることから、域外の商業資本が敵対するわけにはいかないし、さりとて好き勝手な収奪を可能にするほど従属させるには強すぎる相手だった。
それゆえ、スウェーデン王権は、資源保有という特殊な地位に加えて、重商主義政策や軍事力という点では十分な装備を身にまとっていたから、ヨーロッパ諸国家体系のなかでたえず有利な地位を占めていた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成