第8章 中間総括と展望
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こうして見ると、17世紀末時点で国民国家を形成できていた、あるいは国民国家の初期形態をなしていたのは、イングランドとフランス、そしてスウェーデンだけだったということになる。これは、あくまで、絶対王政が育成防護した基盤の上に、その後ブルジョワ国民国家が確立されていったという結果から見ての判断である。
とにかく、ほかの諸地域の支配者たちから見れば、とりわけ強力な国家の形成をめざす勢力から見れば、イングランドとフランスはモデルになりえた。軍事組織や政府財政の運営――重商主義思想も含む――という点では、ネーデルラントもまた輝かしい成功例だった。こうした成功例は、諸王権によって奨励設立されつつあったアカデミズムでの研究対象となった。各地の君主や支配階級は、そのようなモデルに倣い近づかなければ、ますます対抗が熾烈化するヨーロッパの諸国家体系のなかで生き残っていけないと痛感するようになった。
国家形成は目標として掲げられ、成否はともかく統治者の側から目的意識的に統制される過程となった。こうして、17世紀末以降、ヨーロッパにおける諸王権の動きと生き残り競争は決定的に変化してしまい、諸国家体系の構造には質的な転換が生じたのだ。
ところで14世紀から17世紀にかけての時期には、ヨーロッパでは、各地の大学が宗教指導者の育成機関から行財政の指導者や法律・会計の専門家の育成機関となり、また専門的知識人層を中心に印刷出版という情報活動が普及しつつあった。そういう状況のなかで、北西ヨーロッパ――ブリテンやネーデルラント、さらにフランス――の先進事例は後発後続――ドイツやスウェーデン、ロシア、オーストリアなど――の国家形成者たちの考察と学習の対象となり、政府装置の担い手(エリート官僚)の教育材料となった。大学で育成した法律や行政の専門家たちの就職先が各地の有力王権であってみれば、いわば当然の成り行きだった。
ルネサンス以降、西ヨーロッパでは、統治や支配のための学問、政治経済学や法学、国家学が形成されていった。とりわけスウェーデンやプロイセンにとっては、ネーデルラントやイングランドやフランスの歴史は「成功の経験法則」を導き出す先進事例だった。まして、諸国家体系のなかでの競争では、自分に先んじた成功者の到達点に追いつくことが、諸国家の指導者たちにとって最重要な政策目標の1つになっていた。
彼らがイングランドやフランスから学び取ったのは、重商主義、つまり「富国強兵」の原理だった。こうして、それ以後に出現してくる諸国家は、世界経済での自国資本の競争力の強化を追求し、そのために国内の資源を動員する政策体系や制度を構築していった。
それゆえ、こののち西ヨーロッパでは国民国家という形態が、軍事的・政治的単位の目標とすべきノーマルな形態として、国家形成の担い手や統治者によって意識され、政治思想、法思想、経済思想を拘束するイデオロギーとなっていった。したがって、後続者たちは統治秩序を国民国家として建設・組織化することを目標にすることになった。
とりわけ集権化と国家形成のためには強力な王権が必要だという発想が生まれ、これは「専制王権」思想に結びついた。一方で、王権と商業資本との結合とこれにもとづく貿易競争の支援や工業の育成、そのための科学技術・科学思想の普及と研究の必要性もまた強く意識された。こうして後発諸地域には「啓蒙専制王権」思想が勃興する。
ヨーロッパの近代社会科学は、こうしたイデオロギー的被拘束性に付きまとわれながら形成され、今日にいたっている。国民史観 national history 、一国歴史観もその所産だった。
さて、以上のように、私たちは「絶対王政は国民国家か」という問題への回答を提示した。繰り返せば、国家的な統合に成功した絶対王政は国民国家の初期形態である、ということだ。
では、日本では世界システム論的視点を織り交ぜながら柴田三千雄が提示した「社団国家」という形態規定は、どの程度妥当性をもつのだろうか。これまでに見たように、「絶対王政」「絶対主義国家」というものは、本来政治的煽動の見地から提起された国家観だった。ということで、従来「絶対王政」や「絶対主義的国家」と呼ばれていた政治構造について、歴史学的により正確を期して「社団国家」 Körperschaftsstaat / état-corps という名称を与えるようになっている。
17世紀のヨーロッパの政治体は、おしなべて社団的編成をともなっていた。というよりも、中世以来、20世紀初頭までのヨーロッパの政治体は、それぞれ内部的な統治権力をもつさまざまな身分団体=社団の連合組織だった。ただし、中世の政治体は国家を形成していなかったという私たちの立場に立てば、社団国家と呼べるのは、16世紀のイングランドと17世紀半ばのフランスの絶対王政以降の国家ということになる。
17世紀から19世紀の王権国家や初期ブルジョワ国家は、いまだ身分制秩序に依拠していて、各身分団体に特殊な法=特権と法人格を与えながら中央国家装置の周囲に結集させて国民的統合をはかり、世界市場競争や統治を組織化していた。このような意味では、社団国家という属性は十分妥当する。
たしかに一見したところ、社団国家という分類は、この当時の政治体を、中世の統治秩序や20世紀のブルジョワ民主政と区別できるように見える。中世との区分の指標となるというのは、中世には社団=身分団体と特権はあったが、国家は存在しなかったからだ。だが、それだけのことだ。
だが、それによって、世界経済での諸国家の位置づけや行動スタイルを識別することはできない。それは、一方での強力な国家を形成することができたイングランドと、他方での国家形成に失敗したエスパーニャやドイツで割拠分立する弱小な領邦国家との相違を識別できない。分類のための分類に終わっている。つまり、歴史的に動態的な構造を把握するには適性を欠いている。ゆえに、私たちは研究のなかでは使用しない。「分類のための分類」「理論のための理論」の考究はしないというのが、ここでの研究戦略上の方針だからだ。
社団国家観には、歴史的現実から遊離した幻想的な仮説がまとわりついている。
この社団国家理論には、「近代国家は中央政府と一般住民とのあいだにはあれこれの《半ば自立的な中間団体》がない」という観念=原理がそのまま歴史的現実に妥当するとでもいうかのような幻想が仮定となっている。要するに、近代社会の実際の政治システムを度外視するかのような先入観の響きがある。
そのような社団国家の規定は、絶対王政だけでなく、身分制秩序に依存するブルジョワ国家――1920年代までのブリテンも含めて――にもあてはまることになる。近代ブルジョワ国家の「典型」とされるブリテン王国のレジームは、王族をはじめとする貴族団体のように、20世紀まで身分制的構造をともなう《中間団体》が存在し、統治や秩序維持のための有力な機能を果たしていた。それらは支配諸階級の政治的凝集を組織し、下層諸階級に対する優越を保持する役割を演じていたのだ。
しかし、 corporatism や polyarchy の理論は、このような平板な近代政治認識の一面性・限界を超克するために提起されたのではなかったか。
それらによれば、近代諸国家に見られる多様な中間団体(産業団体、経営者団体、労働組合中央組織など)は、組織の内部に対しても外部に対しても大きな権力や影響力を備えていて、統治秩序や国家政策(利益の分配や保護)のなかで圧力団体として機能しながら何らかの構造的優越や「特権的地位」を獲得するために、あるいは現に確保しているがゆえに存在する。そして、中間団体は利権や利益の分配や誘導と引き換えに、権力中枢からの統治情報を団体の構成員に中継伝達して、団体としての凝集や統合を組織・維持し、国家の統合作用や秩序維持に協力=参加するという機能を果たしているではないか。
たしかに近代市民革命の思想的先駆者や代弁者たちは、身分特権や身分団体の除去を変革の目標の1つとして掲げたが、それは理念=イデオロギーとしての共同主観であって、変革の結果として出現した社会状況や政治秩序を説明するものではない。社団国家理論は、このような「啓蒙」イデオロギーによる束縛を強く受けている。いわば国家観念の分類学にすぎないもので、歴史的事実を説明する理論ではない。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成