第8章 中間総括と展望
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スウェーデンでの国家形成もまた地理的配置と地政学的環境の幸運にめぐまれた。15世紀末以降、デンマーク王権による支配(カルマル同盟)から離脱独立をめざす運動を経て、域内王権による領域国家の形成の動きが活発化したとき、おりしもスカンディナヴィアとバルト海における政治的・軍事的・経済的環境が構造的に変動し始めていて、スウェーデン王権の域内統合と域外進出がこの変動を加速し、この構造的変動に独特の方向性を与えた。
主な変動要因の1つめは、それまでスウェーデンに宗主権をおよぼしていたデンマーク域内で王権レジームの動揺――王位継承と教会政策をめぐる貴族連合の分裂と紛争――であり、それが、スウェーデン王権の独立闘争に対してデンマーク王権の効果的で持続的な封じ込め攻撃を不可能にしたことだった。バルト海周域には、領地と影響力の拡大をめぐって多数の君侯たちが対抗していたが、デンマークを除けば、当時、この地域にはスウェーデン王権の動きを封じ込めるだけの力をもつ君侯権力は存在しなかった。
2つめの大きな要因は、バルト海貿易圏における権力構造の転換、つまりハンザ同盟の経済的・軍事的能力の衰退、とりわけリューベックの地域覇権の後退だった。それは、ヨーロッパ世界市場の生成がもたらした帰結だった。リューベックはスウェーデンの対岸にあって、それまではバルト海での通商上および軍事上の優位をデンマーク王権と争っていたために、スウェーデン王権のデンマークからの独立を支援してきた。
しかし16世紀前半から半ばにかけてスウェーデン王権は、独立を強めるにつれて、宮廷の周囲に在地の特権商人層を結集しながら、リューベックの通商的・経済的支配からの自立を追求するようになった。ヨーロッパでの権力闘争の主役は都市から領域国家=領域王権に交代しつつあった。
世界市場での通商競争でも、商人団体に対する領域国家の支援がなければ優位の確保が難しくなった。個々の有力都市の力能を超える軍事力を備え、固有の政治的凝集を組織し始めた君侯=王権に対して、もはやハンザ諸都市は通商的・経済的支配力を行使しにくくなっていた。1537年、スウェーデン王権はデンマークと同盟して、リューベックの艦隊と傭兵隊を撃破して、通商自由権を奪い取った。
3つめの要因は、スウェーデンの特殊な貿易・産業構造だった。スウェーデン域内には、当時の世界市場で飛び抜けて大きな競争力をもつ商品、つまり鉄と銅の産地があって、ヨーロッパ各地、とりわけ北西ヨーロパにきわめて有利な条件で輸出することができた。ゆえに、王室と有力貴族は貿易によって巨額の利益を獲得した。早くから都市建設や商工業の育成において北ドイツやネーデルラント商人との結びつきが強かった王と貴族は、富国強兵政策のために多くの域外富裕商人を招聘して特権を付与し、成功者を貴族身分や宮廷高官に取り立て、王権の政治的支持基盤として組織化すると同時にその財政基盤を強化することができた。
ことにネーデルラント諸都市は、鉄と銅という戦略的にきわめて重要な物資の産地であるスウェーデンを経済的に支配していたが、エスパーニャ王権との敵対のなかでスウェーデン王権との同盟を必要としていた。そのため、ネーデルラント商人たちは、一方的に搾取するというよりも、スウェーデンの産業育成や王権の強化に協力していた。
4つめの要因は、域内の独特の階級構造、とりわけ王権と同盟しそれを支える貴族連合の動きだった。スウェーデンの寒冷な気候風土と小さな人口(分散的な村落)は貴族層による自立的な所領経営――それゆえまた地方貴族の政治的・軍事的分立――をほとんど不可能にしていた。貴族層自体の人口も少数だったから、スカンディナヴィアとバルト海の政治的・軍事的環境のなかで、彼らは強固な連合を組織しながら王権に結集するしか特権身分として生き残る方途はなかったのだ。彼らは教会改革にさいして王権と同盟して教会資産の収奪を積極的に進め、所領と資産を増大させ、王国の政治装置のなかでの影響力を拡大した。
こうして、スウェーデンでは16世紀前半から、ヴァーサ王室と有力貴族集団の緊密な同盟によって総体としての王権の優位が確立されていったが、その後、王と有力貴族との関係は時期ごとに変動した。
成人して指導力のある王が玉座に座れば王と側近貴族集団による「専制統治」がおこなわれ、財政の集権化や直轄地への王室の支配が強化され、逆に王が幼若であるとか統治に関心が薄ければ、名門有力貴族=摂政団による統治がおこなわれ、王室に対して貴族の特権が拡大されるという一般的傾向があった。しかし、《機関としての王権》の最優位は動かなかった。
この時期におりしも、バルト海の対岸地域ではポーランド王権やドイツ騎士団が衰弱をきわめ、地方貴族層・諸侯の政治的・軍事的分立が昂進していた。軍事力を整備拡張しつつある有力な領域王権が支配圏域の拡大のために、この地域に軍事的冒険に出る条件はととのっていた。スウェーデン王権とデンマーク王権は、ポーランドの王や有力貴族層を巻き込みながら、バルト海周域での領地拡張をめぐって闘争することになった。
一方、東方ではモスクワ大公がヨーロッパ・バルト海方面への進出をねらっていた。こうして、この地域では16世紀から18世紀まで諸王権による軍事的対抗と戦乱が断続することになった。そしてそれは、「宗教改革」の時期と重なり、宗教紛争の色合いを強めていった。
なかでもスウェーデン王権はネーデルラントとの経済的・政治的結びつきが強かったため、ヨーロッパで最先端の技術と思想を取り入れた軍制改革を持続的におこない、バルト海では頭抜けた装備と能力を備えた軍事組織と戦術を保有することになった。域内では地方行政や兵制、税制などの改革が進められた。貴族層は固有の凝集力を保ちながら、軍隊での指導力を身につけていった。
それゆえ、ポンメルンからリトゥアニア、エストニア方面にいたる地域ではスウェーデン王権の軍事的優位が確保され、その支配地が拡張した。支配地の拡大は、王室財政の収入の増大を帰結した。なかでも、バルト海での穀物貿易海運をめぐる入港税・通航税の収入は巨額にのぼり、スウェーデン王軍の戦費のおよそ20%を補ったという。スウェーデン王権はその政治的・軍事的能力を利用して、バルト海地域からネーデルラント商業資本が収奪した経済的剰余(商業利潤)の一部分を掠め取ったのだ。
とはいえ、当時、貧弱な行財政機構しか備えていなかった王権が戦争企図を繰り返せば、財政の逼迫が常態化するのは避けられなかった。
東ヨーロッパと北ドイツへの軍事作戦と侵略は、スウェーデン王権を大陸でのより広範な戦争や勢力紛争に引きずり込むことになった。17世紀前半には、王権は三十年戦争に介入し、フランス王権の財政支援を受けながらスウェーデン王軍は各地を転戦した。
スウェーデン王軍の大半は大陸で雇った傭兵からなっていたが、軍制改革によって装備は王権が支給し、スウェーデン貴族士官の指揮のもとで教練・訓練をおこない、高度な指揮系統の組織性と規律を確保していた。その意味では、当時ヨーロッパで最も近代的な軍隊だった。
ところで、フランス王権からの財政援助は一時的中断を経てその後も継続し、スウェーデン王権の大陸での軍事活動を束縛し続けた。したがって17世紀後半からは、スウェーデン王権をめぐっては、一方ではヨーロッパ世界経済で優越するネーデルラントないしイングランドからの圧力、他方ではフランス王権からの影響力が交錯することになった。
それにしてもスウェーデン王権は貴族層と強固な同盟を組織しながら、バルト海で数々の軍事的冒険に乗り出し、人口も財力も限られた辺境の王国でありながら、ヨーロッパ諸国家体系のなかで有意な地位を確保することができた。貴族層はときに派閥闘争や王との対立を見せたが、王国の統治組織としての王権政府の高官や軍事的指導者として精勤した。そこには、王や王室を超えた政治組織としての国家への忠誠あるいは国家の指導者としての貴族身分の意識化が見られる。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成