第8章 中間総括と展望
この章の目次
私たちはこれまで、ヨーロッパッ各地での商業資本の権力の成長、世界市場・世界経済の形成、国家形成と国民形成の動きなどの歴史を追いかけてきた。人類はより大きな生産力や技術、経済を組織化する能力を手に入れるようになってきた。だが、それは支配や収奪のありようがより系統的で苛烈なものになり、戦争や殺戮・破壊がより大規模で深刻なものになっていく歴史でもあった。それは、人類にとって進歩とか発展と評価できるようなものなのだろうか。
ここで歴史観や歴史認識の方法論の根源に立ち戻って省察してみる。
私たちの歴史叙述は、論理的必然性に沿って進んでいく「概念の自己展開過程」を模したものではない。つまり、内的な必然性が展開する過程についての叙述=記録ではない。言い換えれば、歴史発展の法則というものはない、と考えるということだ。私たちは歴史を総体として「発展」や「進歩」の過程と見る立場はとらない。
発展史観や進歩史観は、自らの価値観に沿って「低位なものから高位なものへの上昇」として歴史を描き出そうとする。けれども、私たちは人類史を単なる《自然史的な進化》としてしか見ない。ゆえに、中世ヨーロッパの支配秩序に比べて「資本の支配」または近代の支配秩序が進歩的であるわけでもない、倫理的に高い位置にあるわけでもないと見なすことになり、したがって人類の進歩・発展と位置づけることもできない。
中世後期のヨーロッパのさまざまな身分団体や政治体は、自らの権利や特権の正統性や根拠を「良き古き法」に、つまり過去に求めた。これに対して、近代啓蒙思想や市民革命思想は、市民革命後の(新しい時代の)社会が過去のいかなる時代よりも高い価値や倫理性をもつと評価した。つまり将来に向かっての前進・進歩に「正しさ」の根拠を見出した。ゆえに旧い秩序の破壊と組み換え、新たな秩序の創出は「理にかなう」ものだと訴えた。近代ブルジョワ社会科学もマルクシズムもまた、このような史観の系譜上に位置する。
マルクスは人類社会を「自然史的過程」と見なしながら、そこに資本主義の没落と社会主義革命の必然性という倫理的価値観をもち込んだ。「神の見えざる手」によって生み出された敵対的分配形態や生産の無政府性を克服できると。だが、そうだろうか。
資本主義を世界システムとしてとらえたとき、多数の国民国家への分割状態のもとでは世界革命はおよそ考えられないし、個別の国民国家の権力を掌握したところで、何ほどのレジーム転換もできそうもないと考えられる。世界システムとしての資本主義の総体としての生産様式は、およそ個別国民的規模、局地的な規模での変革では転換されそうもない。とはいえ、人類の破滅・破局を避けるためには、資本主義的システムは変わらなくても、あまりに過酷な搾取や格差をともなう資本蓄積競争をより温和で平和的なものへ変更し改革することには大きな意味があるだろう。
中世ヨーロッパで始まった世界経済の地理的拡大は、生態系の大規模な組換え=破壊をもたらした。これは、私たちの自然史観では、シロアリがアリ塚を拡大して周囲の生態系を組み換えていくのと同じような過程である。人類という特殊な生物群は、社会という特殊な生存環境を形成することで、生態系を短期的には自分たちの都合のよいように組み換え、それゆえまた、長期的には生態系や環境の組み換えや破壊の結果によって自らの生物的・社会的生存を脅かされる、そういう生物種であるように見える。人類史の過程は、破滅や滅亡への接近かもしれない。
歴史それ自体はあくまで、時系の前後変化でしかなく、無数の偶然の連鎖からなる過程でしかない。マルクス派が資本主義的生産諸関係を止揚する要因と評価した「生産力の発展」なるものも、「資本の支配にとって有益な」自然の改造能力、あるいは生態系の破壊や改造技術の物量的規模における拡大でしかない。
マルクス自身が、資本主義社会での生産力は「資本にとっての生産力」でしかないと断言しているのだが、では、その生産力を「資本の支配」から解放するためにはどうすべきかという点に関しては何も述べていないのだ。そして、マルクスが見た「生産力」とは蒸気機関動力の列車や船舶の出現という現象に見出した程度のものなのだ。現代の人類は、それとは比較にならない巨大な科学技術やエネルギーを手にしたが、むしろ資本の権力をけた違いに強化しただけのようにも見える。つまり、生産力は生産諸関係と矛盾することなく拡大し続けてきた。
私はヘーゲリアンを自任するのだが、「歴史の発展法則」はありえないし、「歴史発展の内的必然性」はありえないと考えている。左派ヘーゲリアンとして次のように考えている。
歴史の過程はすべからく偶然の連鎖だが、思考においてその過程を「物語化」して再構成し、理解するために、事態をあたかも「内的必然性」が進行するかのように整序配列して秩序づける必要があるのだ、と。この整序配列や秩序づけは、認識しようとする者の価値尺度によって意識的または無意識的に左右されるのことになる。そして、人間の精神作用としての認識の世界においては、あたかも内的な必然性に導かれて認識が対論法(弁証法)的に発展することはありうるし、「矛盾 Widerspuruch 」――正確には矛盾を超克しようとする動機――が認識がより包括的な次元に進展していく原動力になるだろう。
ところが、その発展過程やそこに含まれる矛盾――並存できない対立的な命題――なるものは、人間の主観の世界、思考の世界に属するものであって、私たちの外界をなす客観的な存在の世界にあるものではない。客観的世界が成り立っている以上、そこに矛盾はない。対立・敵対は並存しているのであって、並存できる対立・敵対を矛盾とは呼ばない。矛盾なるものは、私たちが客観的存在の世界を知覚し認識するうえで用いる《思考や推論の判断形式》ないし価値観にすぎないのだ。私は、ヘーゲルの矛盾カテゴリーや対論法(弁証法)というものは、人間の精神作用と認識の過程を解析するための装置にほかならないと見ている。
しかし、歴史の発展法則はないとはいえ、歴史の個々の局面では必然性ともいうべき局部的な因果連関は存在する。偶然の連鎖の局部的趨勢ないし傾向性ともいうべきものだ。私たちはそれを説明しようとしてきた。ただし、それ以上のものではない。単なる局部的な必然性の膨大な集積としての「大構造の歴史」のなかに、発展や進歩というカテゴリーで必然性・法則性をもち込むのは、人類の傲慢というべきだろう。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成