第8章 中間総括と展望
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16世紀には、ヨーロッパ諸王権(諸領域国家)のあいだの軍事的敵対と貿易戦争が全面化した。諸王権は、いまだ国家としては十全のレジームを形成していなかったけれども、自己の生存を至上命題とする独立の政治的・軍事的単位として対抗していた。多数の領域政治体が分立対抗し合う状態を政治的・軍事的環境をともないながら、ヨーロッパ世界経済が形成されてきた。
この時期のヨーロッパでは、地理的に広大な「帝国」の運営は、その支配体系の中心によほどに強力で高度な凝集性をもつ国家組織があって、その中心から「帝国」の諸領域を効果的に統制できなければ、存立不可能になっていた。それにもかかわらず、ハプスブルク王権は「帝国政策」を追求し、名目上支配する諸地方の上に立つ権威を打ち立てようとした。
ハプスブルク王朝の支配圏域の地理的範囲の飛び抜けた広大さから見ても、また支配圏域に含まれる諸地方・諸都市の経済的富の大きさから見ても、ヨーロッパの諸王権にとっては、ハプスブルク王朝の帝国政策は、自分たちに優越する権威を追求する動きと思われた。
ところがエスパーニャでは、カスティーリャには強力な王権が成立していたとはいえ、その王権はカスティーリャ域内でも上級貴族の専横を統制できなかった。むしろ有力貴族層が連合して王国を形成し、王権を統制していたというべきだろう。そのうえ、エスパーニャ連合王国を構成するアラゴン、カタルーニャ、バレンシーアは各王国ごとに独自の統治構造(固有の法体系と税制)を固守していて、兵員の派遣はおろかカスティーリャの王室財政への戦費の支払いにすら応じなかった。
応じることができなかったのだ。そうでなくても、これらの地方王国ではそれぞれに域内諸地方の分立を克服できないほどに行財政装置が貧弱で、旧来からの税収ではこれらの地方の統治費用をまかなうにも足りないありさまだった。
してみれば、ハプスブルク家の「帝国政策」は、名目上の支配圏域のなかで実効的な集権化をめざす動きというよりも、それぞれの域内での政治的凝集を組織化することが難しい諸地方領を臣従関係をつうじて名目的にひとまとめにする消極的な危機回避策でしかなかったといえる。
そもそも、カスティーリャの王室は一度たりとも、専制王権あるいは「絶対王権」の確立をめざしたことはなかった。各地方王国や領地に対して臣従を受け入れさせ、それらの在来の固有の法の自立性を認めるのと引き換えに、盟主としてのカスティーリャ王室に財政的ないし軍事的援助を求めるというレジームだった。
だが、その程度の統合でさえも拒まれて、アラゴンでも、カタルーニャでもナポリでも、カスティーリャ王権への名目上の臣従が保たれていればよしとして、行財政組織や軍事組織の実効的な集権化を進めることはなく、それぞれの域内でエスパーニャ=カスティーリャ王権の実質的な権威の衰退――あるいはさらに反発や憤懣――を進むに任せたるしかなかった。
いたるところで地方貴族層の横暴を黙認し、域外商人がイベリアの経済を支配することも、つまり域内経済が域外商業資本への従属を深めていくのも成り行きに任せていた。要するに王室は、域内および支配地で税や賦課金、戦費割当金を手に入れることができればよしとするか、あるいはそれがかなわなければ「宗主権」が名目上受容されさえすれば、域内経済がどれほど虫食い状態になっても放っておいたのだ。というよりも、行財政装置があまりに未熟で統制がきかなかったというべきか。
歴代のエスパーニャ王とその側近たちには、王権による集権化を推進する政治的イデオロギーとしての重商主義が欠如していたのだ。アメリカでの征服と植民地経営も、大西洋航路から流入する貴金属の運用も「成り行き任せ」だったとしか言いようがない。
王権の直属装置のなかで最も統制・抑圧機能がすぐれていたのはイエズス会をはじめとするローマ教会組織であって、そしてそれと結びついた異端審問制度だった。
本領カスティーリャですら、牧羊業団体メスタ評議会とブルゴス商人たち――ネーデルラントや北イタリアに経済的に従属する仕組みのなかで原毛を輸出していた――の利益のために、域内経済がネーデルラントやジェーノヴァ、イングランドの商人にどれほど食い物にされようが、王権は危機感を抱かなかったようだ。あるいは、新大陸からの財貨の流入で、目をくらまされていたのかもしれない。
そのような王権運営・王室経営の思想的表現が、「帝国政策」であり、王室財政主義 Kammeralismus だった。王たちは、ヨーロッパ各地に広がる名目上の支配地でカスティーリャ王権の優越権――それには王権の直属組織としてのローマ教会の支配的地位が含まれていた――が法観念上認められ、王室への税や賦課金の上納が実行されればよしとするしかなかったようだ。
当然のことながら、この広大な帝国の周りの敵対勢力と軍事的に対抗するために必要な軍事力も、それを支える財政収入も、きわめて貧弱だった。多くの地方王国は、兵員はおろか財政的援助さえ提供しなかった。すべての財政負担の重みは、カスティーリャ王国の肩にのしかかっていた。その重荷は、免税特権をもつ貴族を通り越して、都市住民と農民にのしかかっていた。
1556~57年、イタリアをめぐって展開されたフランスとの戦争は、エスパーニャ王室財政収入のゆうに10年分を食いつぶしたという。ついに57年、王室財政の支払い停止=破産が宣言された。王室財政の破綻によって、カスティーリャ王室に巨額の貸付けをしていたアウクスブルク、ジェーノヴァ、アウントウェルペン、リヨンの金融業が危機に陥り、彼らが牽引車になっていたブームがいっきにはじけた。
同じ年にフランス王室の財政も破綻した。リヨンの御用金融商人の多くもいっしょに破産し、ヨーロッパ金融におけるリヨンの地位の没落は著しかった。南ドイツと北イタリアもやはり深刻な打撃を受けた。おりしも、南ドイツと中欧の銀山経営は、アメリカからの銀の流入によって銀価格が下落し収益が激減したため、衰退してひどくなっていった。
1556年、財政破綻と軍事的手づまりに直面したカルロスは、ハプスブルク家門をエスパーニャとオーストリアに分割するとともに、退位しエスパーニャ王位を息子のフェリーぺに、オーストリア王位と皇帝位を弟のフェルナンドに譲った。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成